2007年7月15日日曜日

日本人は江戸時代に数学のレベルは高かったか?

 私達が、今使用しているのは西洋数学です。

エジプトに端を発し、ギリシャをへて、何千年の歴史の中から成立して来た物です。

ところで、日本には和算という数学がありました。 之は、江戸時代の初期に始まったもので、幕末時代には、西洋数学のレベルに達していたというのです。

西洋では何千年も掛かって、大学者が研究してきた数学を日本では僅か300年足らずの期間に、それも町や村の庶民の間に根を下ろし、研究され、高度にに発達して来ているのです。

この江戸時代の数学が、どんなに一般庶民の物であったかは、各地の神社、仏閣に掲げられた算額から、良く分かります。 「算額」というのは、自分が解いた数学を、額に書いて神仏に掲げるもので、初めは「数学絵馬」といっていました。

額には問題、答え、解き方、幾何学図形、そして、先生と自分の名前等が書かれています。 例えば、京都の八坂神社にあるものは、当時の数学者、長谷川(りんかん)が掲げた物で、現代数学でいえば、七十次方程式で無ければ解けない様な問題らしいです。

岩手県の竜泉寺に掲げられた物は三七桁という大きな数の、二六乗根を出せという物で、横二メ-トルもある額一杯に計算がしてあるらしいです。

京都の安井金比羅宮に在る物は、現代数学の等比級数に当る物で、どうやら子供が習った物らしく、四季の数学という題で、分りやすく出題してあります。

日本中には、この様な算額が数多く残っているそうです。 この算額の名前を見ると鳥居の政松とか、樽尾の平吉とか、(そまし=きこり)の文蔵等という素朴な名前が多いのです 今は西洋数学の押されて、影の薄く成った和算ですが、江戸時代には実に多くの一般庶民が勉強し、しかも、其れが高いレベルに達していたかを再認識して頂きたいです!

和算とは日本独自に発達した数学である。 江戸時代には大いに発展し、西洋とは独自に積分の発見等がなされた。

1). 歴史:和算は中国の数学から多大な影響を受けている。

中国では「九章算術」と呼ばれる数学書が漢代には登場していた。

「九章算術」では面積の計算法、比例、反比例、ピタゴラスの定理などが紹介されている。

7世紀以降、遣隋使、遣唐使の派遣などにより、中国の文化が日本に次々と流入する様になる。

中国の律令制を元に作られた大宝律令(702年)では、算博士と呼ばれる官職が定められていた。

算博士は「九章算術」を始めとした中国の算書の知識が要求された。

万葉集(成立は759年以前と見られる)には次の様な歌がみられる。

若草乃 新手枕乎 巻始而 夜哉将間 二八十一不在國 (わかくさの にひたまくらを まきそめて よをやへだてる にくくあらなくに 巻十一 2542番) 「くく」という読みに「八十一」という漢字が当てられており、既に九九が日本で知られていた事がわかる。

江戸時代に和算は大いに発展した。 このきっかけになったのが1627年(寛永4年)、吉田光由によって書かれた塵劫記(じんこうき)である。

明代の算術書『算法統宗』(さんぽうとうそう)を模範とした物で、そろばんの使用法や測量法といった実用数学に加え、「継子立て」や「ねずみ算」といった数学遊戯が紹介されている。

『塵劫記』はベストセラーとなり、初等数学の標準的教科書として江戸時代を通じて用いられた。

江戸時代には、整数論、解析学といった高等数学も関孝和などの和算家によって発展した。

主に師弟関係で継承されてきた為、あまり一般に知られる事はなかったが積分の発見、整数論等の分野では西洋での発見と同時期、分野によってはより早く発見されていたものもある。

関孝和は1683年の『解伏題之法』にて行列式理論を発見している。

又、円に接する正多角形の辺の長さを用い、円周率を11桁まで得ている。

関の弟子である建部賢弘は級数展開を用いる事で、42桁まで正しい値を計算した。

安島直円(1739年-1798年)、和田寧(1787年-1840年)らによって和算の積分術は発展した。

之により、複雑な図形の面積や、立体の体積が計算できる様になった。

和算における多くの成果は各流派の中で秘伝とされ続けてきたが、関流算術を学んだ久留米藩主 有馬頼徸(1714年-1783年)は、1769年に出版した著書『拾璣算法』において関流の秘伝を公開し、和算文化の向上に大きな貢献を果たした。

明治時代に入り、西洋の数学が浸透するのに伴い、和算は衰退してしまった。

2). 算木とそろばん 算木を用いた数の表記和算で用いられる道具として、算木とそろばんが挙げられる。 いずれも『算法統宗』に使用法が紹介されている。

又、『塵劫記』にはそろばんの使用法が記載されている。 そろばんは会計等、広く用いられたのに対し、算木は専ら和算家によって使用され、天元術と呼ばれる解法によって代数方程式などの計算に用いられた。

天元術では、算盤(さんばん)と呼ばれる表と算木を用いた。

算盤とは碁盤の目状になった表であり、各列が一、十、百、千、万といった桁を表し、各行は商(答え)、実(定数項)、方(x)、廉(x2)、隅(x3)、三乗(x4)...と代数方程式の解及び各係数を表した。

各升目に置かれた算木を並べ替える事で、代数方程式を解いていった。 関孝和は算木を用いずに筆算により代数方程式を解く計算法を編み出した。

この方法は後に点竄術(てんざんじゅつ)と呼ばれ、和算の中心的な手法となった。

3).算額(さんがく)とは、額や絵馬に数学の問題や解法を記して、神社や仏閣に奉納した物である。 平面図形に関する問題の算額が多い。

数学者のみならず、一般の数学愛好家も数多く奉納している。

算額は、数学の問題が解けた事を神仏に感謝し、益々勉学に励む事を祈願して奉納されたと言われる。

やがて、人の集まる神社仏閣を数学の発表の場として、難問や、問題だけを書いて解答を付けずに奉納するものも現れ、その問題を見て解答を算額にしてまた奉納するといった事も行われた。

算額奉納の習慣は世界に例を見ず、日本独自の文化である。

明治時代になり鎖国が解けると、日本には洋算が導入される様になったが、この導入を容易にした事にも算額を奉納する風習が貢献した。

1997年に行われた調査結果によると、日本全国に975面の算額が現存している(『例題で知る日本の数学と算額』森北出版株式会社による)。

之等現存する算額で最も古いものは栃木県佐野市にある星宮神社にあり、1657年に掲げられたとされる。 4).和算の発展に関わった人物:毛利重能、吉田光由、関孝和 ★中根元圭:和算家。

「律原発揮(元禄5年、1692年)」において1オクターブを12乗根に開き十二平均律を作る方法を発表した。 ★建部賢弘:(たけべ かたひろ、寛文4年(1664年)~ 元文4年(1739年))は、江戸時代中期の数学者。

父は旗本の建部直恒。号を不休。 幼少から関孝和の門人となり、1716年(享保元年)将軍徳川吉宗の信頼を得、「日本総図」を作る。

関孝和の後継者という存在になり、その解説書を多数著作する 孝和の兄の賢明ら3人で著作した「大成算経」20巻は当時の和算学を集大成した労作である。 又、天文・暦学の業績も残した。

・著書:『日本総図』、『大成算経』 "http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%BA%E9%83%A8%E8%B3%A2%E5%BC%98" より作成 カテゴリ: 1664年生 1739年没 17世紀の数学者 18世紀の数学者 日本の数学者 江戸時代の人物 5). 関連項目:算法少女、絵馬

6). 参考文献 『例題で知る日本の数学と算額』深川英俊著 森北出版株式会社 ISBN 4-627-01641-7 『「数」の日本史』伊達宗行著 日本経済新聞社 ISBN 4-532-16419-2 『和算史年表』佐藤健一・小寺裕著 東洋書店 

ISBN 4-885-95378-2 "http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E7%AE%97" より作成 カテゴリ: 算術 数学史 数学に関する記事 ●毛利 重能(もうり しげよし、生没年不詳)は江戸時代前期に活躍した和算家で、現在知られている中では最も古い。

通称・勘兵衛、官位・出羽守。 当初、豊臣秀吉に仕えて出羽守となり、明に留学して算術を学ぶ。

大坂の陣では同姓の誼で毛利勝永の部隊にいたとある。著書『割算書』(通称)は、『算用記』と共に江戸時代初期を代表する貴重な和算書である。 『割算書』の奥付には、「摂津国武庫郡瓦林から京都へ移り住み、“割算の天下一”という名(割算天下一指南の看板)の下に塾を開いた」と書かれている。

後の代表的な和算家吉田光由や今村知商、あるいは関孝和の師匠でもあった高原吉種などの弟子達を育てた事でも有名である。

 門弟は数百人にも上ったとある。 この吉田光由・今村知商・高原吉種は俗に「毛利の三子」と呼ばれた高弟である。 熊野神社内に昭和47年に「毛利重能顕彰碑」が建立され、その傍らに昭和48年建立の「算学神社」がある。  

この項目「毛利重能」は、数学に関連した書きかけの項目です。

加筆・訂正などをして下さる協力者を求めています。 (ポータル 数学/ウィキプロジェクト 数学) "http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E9%87%8D%E8%83%BD" より作成 カテゴリ: 日本の数学者 16世紀の数学者 17世紀の数学者 数学に関する記事 数学関連のスタブ項目 ●吉田 光由(よしだ みつよし、慶長3年(1598年)~ 寛文12年11月21日(1673年1月8日))は、江戸時代前期の和算家。

京都の豪商角倉家の一族。久庵と号す。 角倉了以は外祖父にあたる。

初の和算家毛利重能に師事した。 後一族の角倉素庵のもとで中国の数学書『算法統宗』の研究を行い、それを元に1628年(寛永5年)、著書『塵劫記』を出版した。 同書は絵を多用し基礎から応用まで容易に学習出来る様に書かれた数学入門の模範と評価された。

晩年には失明し、寛文12年75歳で没した。 "http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E5%85%89%E7%94%B1" より作成 カテゴリ: 江戸時代の人物 日本の数学者 16世紀の数学者 17世紀の数学者 数学に関する記事 1598年生 1673年没 ●関 孝和(せき たかかず、寛永17年(1642年)3月 - 宝永5年10月24日(1708年12月5日))は、江戸時代の和算家(数学者)である。

本姓内山氏、通称新助。字は子豹、自由亭と号した。 ★ 生涯と業績 関孝和は上野国(群馬県)の藤岡市で幕臣の家に生まれ、幼少時から、吉田光由の『塵劫記』を独学で学び、後に、そろばんや算木から抜け出し、独自の和算の世界を創始する。

甲斐国甲府藩(山梨県甲府市)の徳川綱重、徳川綱豊(徳川家宣)に仕え、綱豊が6代将軍となると直参として江戸詰めととなり、西の丸御納戸組頭に任じられた。 延宝2年(1674年)、『発微算法』を著し、筆算による代数の計算法(点竄術-てんざんじゅつ)を発明して、和算が高等数学として発展するための基礎をつくった。 他には円周率を正131072角形を使って、小数第11位までを求めている。

ニュートン・ライプニッツとほぼ同時期に微分・積分の一歩手前までたどり着いたとして知られるが、和算が自然科学から独立して発展してしまった為にそれ以上の発展を見られなかったと言われるが、ニュートンとほぼ同時期に微分・積分の一歩手前まで辿りついていたという意見には、色々な議論が交わされている。 数学者の藤原正彦氏は辿りついていたと主張している。

関は、ヨーロッパでライプニッツが行列式の概念に到達する以前に独自に同じ概念を研究していた(天和3年(1683年))。

又ヤコブ・ベルヌーイに先駆けてベルヌーイ数を発見していた事も知られている。 関はそれ以前の中国、日本の数学を吸収した上で、そのレベルを飛躍的に向上させ、後の和算の伝統を作った。 宝永5年10月24日(1708年12月5日)、病に倒れて死去。 東京都新宿区の浄輪寺に葬られている。

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E5%AD%9D%E5%92%8C" より作成 カテゴリ: 日本の数学者 数学に関する記事 17世紀の数学者 18世紀の数学者 1642年生 1708年没 ●有馬 頼徸(ありま よりゆき、1714年12月31日(正徳4年11月25日)~1783年12月16日(天明3年11月23日))は、筑後国久留米藩の第7代藩主。第6代藩主・有馬則維の五男。 母は小林氏。正室は京極宮家仁親王の娘。 官位は従四位下、左少将、玄蕃頭、中務大輔。 1). 生涯 1-1). 藩主として 享保14年(1729年)、16歳で家督を継いで藩主となる。

しかし若年の為、元文2年(1737年)までは藩政は重臣によって行なわれていた。

頼徸が政務を執り始めたこの年、久留米藩では飢饉が起こって危機を迎えたが、頼徸は之に対して領民を救う為、救済金や救済米を施した。 更に広く優れた意見を求めるため、徳川吉宗にならって目安箱を設置し、庶民の娯楽として猿楽の興行等も奨励した。

当時、九州では各藩で飢饉が起こり、それによって百姓一揆が頻発していたが、久留米藩でも頼徸が善政を敷いたにも関わらず、発生してしまった。

頼徸は之に対して一揆側の首謀者全員、更に藩の責任者である家老の稲次因幡や有馬石見らを処刑するという厳しさを見せた しかし後に、之等を慰める為に五穀神社祭礼を行なっている。

又、頼徸は有職故実や様々な法令に対して知識が深い教養人であった為、幕府からもその才能を認められて江戸増上寺の御火消役に任じられると共に、官位も之までの歴代藩主より更に上である左少将に叙任される事となった。

しかも狩猟で将軍が仕留めた鶴を拝領する事ができるという「国鶴下賜」を三度も受けている。 之は徳川御三家や伊達氏、島津氏、前田氏等の大藩しか賜らないという厚遇であった為、有馬氏は頼徸の時代に大大名と肩を並べる厚遇を受ける事となったのである。

1-2). 学問藩主・頼徸 頼徸は有職故実や法令等の知識に優れていた事もわかる様に、学問にも長けていた。 特に頼徸が優れていたのは和算であった。

和算は江戸時代前期に関孝和によって成立したもので、当時は代数式、行列式、円に関する計算等がそれであった。

頼徸はその和算に対して深く興味を持ち、関流の教えを継ぐ山路主住に師事して之を学んだ 頼徸は、それまでは52桁しか算出されていなかった円周率を、更に30桁算出し、少数の計算まで成立させた。 明和6年(1769年)には豊田文景の偽名で『拾機算法』五巻を著した。 之は、関孝和の算法を自分自身でさらに研究し進めた物を纏めた物である。

1-3). 死後と評価:天明3年(1783年)~70歳で死去。 後を長男の有馬頼貴が継いだ。

頼徸の治世は54年の長きにわたったため、また頼徸自身が優れた藩主だった事もあって久留米藩の藩政は比較的安定化し、頼徸はその治績から、「久留米藩の吉宗」と賞賛されるに至った 尚、頼徸と同時期の新発田藩の溝口直温や松江藩の松平宗衍ら教養人と並んで、「風流三大名」と称されたのである。

先代:有馬則維 有馬氏(久留米藩7代)藩主 1729 - 1783 次代:有馬頼貴 "http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E9%A6%AC%E9%A0%BC%E3%82%86%E3%81%8D" より作成 カテゴリ: 摂津有馬氏 江戸の大名 外様大名 1714年生 1783年没

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