2007年7月14日土曜日

日本と言う国名の由来は?

 日本の事を指す言葉に、古くは「大八州」(おおやしま)「秋津島」(あきつしま)「豊葦原瑞穂国」(とよあしはらのみずほのくに)「葦原中国」(あしはらなかつくに)「大和」(やまと)などがあり、中国では「倭」(わ)と呼んでいました。
  
  それが「日本」と定められたのは、大宝元年(701年)に制定された大宝律令によってです。

大宝律令は、日本最古の完成された成文法で(それ以前にも近江令、飛鳥浄御原令等の試作品はあったらしいです。)
日本と言う国は、生まれた時から「日本」であったと言って良いでしょう。

大宝律令の頃は、「日本」と書いて「やまと」とか「ひのもと」と読んでいましたが、奈良時代になると漢字の知識が広がり、訓ではなく音読みする様に成りました。

「にほむ」と発音していた様です。
之が時代が下がって、室町時代になると、東国の発音で読まれる様になり、{にほん」或いは「にっぽん」と成ったのです 現在は、{にほん」でも「にっぽん」でもどちらの読み方でも構いませんが、昭和九年の文部省臨時国語調査会では「にっぽん」に統一され一時期この呼び方が強制された事が在ります

 この時、東京の日本橋と「日本書紀」だけは例外に「にほん」と読んだと言いますから、考慮すると随分可笑しな話です。 英語のジャパンと言う呼び名は、マルコポ―ロの「東方見聞録」に載っている「ジパング」(黄金の島)からきています。 日本国(にっぽんこく・にほんこく)、通称日本は、ユーラシア大陸東端の日本列島を主な領土とする東アジアの島国である。

1).  概要:日本は、第二次世界大戦後に成立した日本国憲法を最高規範として、司法・行政・立法の三権が分立する(三権分立)法治国家である。
日本の国家理念ともいうべき立憲主義は、国民主権、それに基づく基本的人権の尊重、平和主義、の三つを基調としている。
日本国の国家元首については、日本国憲法で「天皇を日本国と日本国民統合の象徴とする」と表記されている為、元首に対して法的に明確な定めがない。 (国内の慣例、海外等の対応から天皇を事実上の元首と見る向きがあるが、論争がある) 日本の歴史は天皇が国家権威の中心(君主)であり続け

[1]、 世界的にも長い王朝と歴史[2]を包含する皇室制度をもった国家

[3]である。 現行憲法は天皇の国家象徴を規定しており、現在の日本は立憲君主制である[4]。

日本の経済力はGDP(MER: ドル時価換算)で世界第2位に位置している。

典型的な工業国である。 日本は、1975年の第一回先進国首脳会議からG8(当時はG6)の一翼を担い、世界経済に強い影響力をもち、国際社会における経済支援等において担う役割と責任は非常に大きい。

民族的には日本人(日本民族、大和民族、和人)が殆んどだが、日本国内に存在する他の少数民族としては、以下の物が挙げられる。 歴史上、北海道・樺太を中心に居住しているアイヌ民族・ウィルタ民族・ニヴフ民族。 旧琉球王国領域の住民を、琉球民族と捕える考え方もある。

19世紀の小笠原諸島への移民子孫で、ヨーロッパ系アメリカ人とハワイ人にルーツを持つとされる欧米系島民も日本国籍を取得して居住している。

かつて朝鮮・台湾が日本領であった時代に、日本国内に移住した人々の子孫である在日韓国・朝鮮・台湾人。

その他、ブラジル人等のラテンアメリカ人、漢族を始めとする中国人、フィリピン人やマレー人等の東南アジア人、インド人、スラブ人、アメリカ人、ヨーロッパ人、アフリカ人、アラブ人等、結婚の国際化等により、少人数ではある物の多くの民族が在住している。

東アジア出身者を中心に、日本以外の国籍の人々が帰化する例も見られる。 又日本を離れて外国に居住した日系人等も南北アメリカを中心に見られる。 国籍を取得していない者も多い。

使用言語はほぼ完全に日本語であり、慣習法として日本語が公用語になっている。

アイヌ民族のアイヌ語は話者が少なく、耳にする機会が少ない 旧琉球王国領域の琉球方言を、別言語として区別し、「琉球語」とする考え方もある。

地勢的には、島国であり、海上交易・漁業共に盛んな海洋国家でもあり、地政学上は典型的なシーパワーに分類される。

内海を含む領海、排他的経済水域等の水域面積は約447万平方キロメートルであり、之は国土面積の11.7倍である[5]。

位置はユーラシア大陸の東端に位置する台湾の東方にある与那国島から、サハリンの南方にある北海道までを領土としており、北から時計回りに、オホーツク海、日本海(韓国名:東海)を挟みロシア連邦、太平洋南側でアメリカ合衆国、北西フィリピン海海上でフィリピン、東シナ海をはさみ中華人民共和国、中華民国(日本国は承認していない)、日本海を挟み大韓民国、及び朝鮮民主主義人民共和国(日本国は承認していない)の計7国家・地域と接する。

又、南方にパラオ、小笠原諸島の延長線上にミクロネシア(北マリアナ諸島)がある。 太平洋をはさんでアメリカ大陸がある。

2).国名:国号(正式名称)には通常「日本国」が用いられる 憲法の題名として「大日本帝国憲法」及び「日本国憲法」の表記があるが、条文で「国号を日本国と称する」等と直接かつ明確に規定した法令はない。

「日本」の国号が成立する以前は対外的には「倭国」又は「倭」と書かれ、国内的には「やまと」と読まれた。

更に古くは実に多様な名があったらしく、「大和」、「葦原中国」又は「豊葦原千五百秋瑞穂国」、「中国」、「豊葦原中津国」、「豊秋津島」、「大八洲」、「磯輪上秀真国」、「細矛千足国」、「玉垣内津国」、等さらに多くの別名があった。

漢文由来の異称も、中国大陸の扶桑蓬莱伝説に準えた「扶桑」、「蓬莱」という呼び方を始めとして、「東海姫氏国」、「阿母郷」、「日下」、その他多様である。

対外的にも最も一般的な通称だった「倭国」は、7世紀頃に「日本」と改名されたと考える説が有力である(異説もある)が、当時は国内での読み方は「倭」でも「日本」でも、共に「やまと」であり、国内的には表記の変更にすぎなかったと考えられる。

(「日本」という名詞は、正式国名として採用される以前には、「扶桑」、「蓬莱」、「東海姫氏国」、「阿母郷」、「日下」、等と同様の語だった) 「ひのもと」という読み方は後に起こった。

「皇朝」は元々は中原王朝の天子の王朝をさす漢語であるが、日本では天皇王朝をさす漢文的表現として使われ、国学者は之を「すめみかど」又は「すめらみかど」等と訓読した。

「神國」、「皇國」、「神州」、「天朝」、「天子國」(國は国の旧字体)などは雅語(美称)としての「皇朝」の言い替えであって、国名・国号という様な物ではない。 「本朝」は「我が国」という様な意味であって之も国名ではない。

江戸時代の儒学者などは日本をさして「中華」、「中原」、「中朝」、「中域」、「中國」等と書く事があったが之も国名ではない。 「大日本」と大とつけるのは、国名の前に大・皇・有・聖等の字をつけて天子の王朝である事を示す中国の習慣からきている(「有漢、皇魏、聖晋、大宋、大清、大韓」等)。 しかし、「おおやまと」と読む場合はそれとは関係ない古称の一つである。 「帝國」は、元は「神國、皇國、神州」と同様であったが、近代以後は"empire"の訳語として使われる。

古代においては王国を束ねる盟主の意味があり、天子は一人であるとする中原王朝の反発を招いた他、朝鮮半島の王国も之に抗議した。

しかし本来は「山城国」等、日本六十六州の帝であり、主に中原王朝からの自立の意図でも用いられた。

「帝国主義」の語はカール・マルクスの亡命先である19世紀の覇権国家・大英帝国の意味であり、日本をその様な超大国と解するのは誤解を伴う部分もある。

明治時代から第二次世界大戦後までの国号は様々に変遷しており、従来の日本、日本国のほか大日本帝國、大日本國、日本帝國等も用いられ、端的に表す場合は単に「帝國」とも略された 戦後は主に「日本」或いは「日本国」でほぼ統一されている。

但し日本公式の印鑑である「国璽」は明治時代に作製された「大日本國璽」が使用され続けている。

日本政府は正式な読み方を明確に定めていない。

通商や交流の点で海外と関連のある紙幣、切手、スポーツの国際試合のユニフォーム等には「NIPPON」と描かれている事がある。

之は一説によると、ラテン語圏ではH音が発音されない為「ニオン」と呼ばれてしまうからという理由であるという。

之には英語の語感が"nip on"に通じ甚だ印象が悪い事から「NIHON」にすべしとの意見もあるが、外国語の事情に併せて自称を変更する事には賛否両論があろう。

現代では、スポーツの応援等元気をだす時、威勢をあげる時は「にっぽん」、詩的で優しく穏やかな文脈では「にほん」という様に、語感に応じて使い分けられる面もある。

「日本」の最初の用例は確実な物は決めがたい。

『日本書紀』は「倭」を遡って「日本」に書き改めているからである。

例えば『日本書紀』大化元年七月の条によって645年7月に高句麗や百済の使者に示した詔の「明神御宇日本天皇(あきつみかみとあめのしたしらすやまとのすめらみこと)」という語が最初とする見解もあるが之にも疑問がある。

語義としての「日本」は、有名な『隋書』大業三年(607年)の「日出づる処の天子」が知られるが、この頃はまだ「日本」とはされていなかった事が逆に証明される。

7世紀成立の中国の『旧唐書』には日本人が倭国の名称を嫌い、国名を日本に改めたとある。

「日本」という国名が最初に公式に定められたのは、701年施行の『大宝律令』とされるが、条文法規に定められる以前、天武天皇の頃から使われてはいただろう。

(「天皇」号の使用と「日本」号の使用は軌を同じくするとみられている。

(異説もある)近年発掘された飛鳥池遺跡出土の天武六年(678年)銘の木簡から、この頃「天皇」号が既に使用されている事が分っている。) 又、734年には井真成の墓誌として中国大陸でも使用されている。

公式の英語表記は、Japan(ジャパン)略記としてはJPNが用いられる。

JAP(ジャップ)は、アメリカ英語では侮蔑的な意味があるので[6]、使用には注意が必要である。

(但しこの他の言語ではこの限りではない) 又、最近の英語表記ではNippon(ニッポン)が用いられる事が多い。

具体的にはUPU等によるローマ字表記(1965年以降)、日本郵政公社の切手や日本銀行券などでNippon表記を用いている。

尚、Nipponの先頭三文字で略したNIP(ニップ)は、JAPよりも強い侮蔑・差別の意味合いがあるので、使用するべきではないこの場合の略称はNPNとなる。

世界の多くの言語において日本を意味する固有名詞は、ジャパン(英:Japan)、チャパーン(愛:tSeapáin)、ヤーパン(独:Japan)、ジャポン(仏:Japon)、ハポン(西:Japón)、ジャッポーネ(伊:Giappone)、ヤポニヤ(波:Japonia)、ヤポーニヤ(露:Япония)、イープン(泰:ญี่ปุ่น)、等、ある時期にある地域の中国語で「日本国」を発音した物(ジーパングォ)を写し取ったジパング (Xipangu) 或いはジャパング (Japangu) を語源とするのが定説である。

中国や朝鮮等の漢字文化の影響の強い地域においては、リーベン(中:Rìbĕn; 日本)、イルボン(朝:일본; 日本)、ニャッバーン(越:Nhật Bản; 日本)[7]等、その儘「日本」を自国の発音で読むというやり方をしている。

尚、「日出ずる処」を各国語に訳した名詞句も「日本国」を示す物として使用されている。 例:(英語)"(the) land of (the) rising Sun"、(フランス語)"le pays du soleil levant"、(スペイン語)"El pais del sol naciente"。 3).首都:詳細は日本の首都を参照 首都は東京[8]。

世界最大の都市圏でもある。 東京都を中心に神奈川県、埼玉県、千葉県などを含む都市圏人口は約3300万人。 東京都特別区の人口は約850万人である。

東京には、皇居の他、国家の最高機関国会、内閣、最高裁判所があり、政治・経済の中心地である。 4).歴史:詳細は日本の歴史を参照。

又アイヌと琉球地域に関して日本の領土になったのが明治以後である為それ以前の歴史には違いがあるので、各々の項を参照の事。

4-1). 建国年と皇紀 『日本書紀』には、辛酉年春正月庚辰朔(1月1日)にカムヤマトイワレヒコ(和風諡号「神日本磐余彦火火出見天皇」の仮名の音。

漢字の諡号は神武天皇)が即位したとあり、之を日本建国と位置づけているが、現代では歴史的事実を反映した物ではないとの説が有力である。

しかし、未だ史学者の間でも賛否両論があり、今日においても結論は出ていない[9]。

明治5年11月15日 (旧暦)(1872年12月15日)に、西暦紀元前660年が神武天皇即位紀元の皇紀元年とされ、明治6年(1873年)1月1日から使用された。

現代の日本では紀年法としてはグレゴリオ暦(西暦)若しくは元号が使われる事が多く、皇紀は殆んど使用されていないが、一部の現行法上においては現在も効力を有しており、法律文書等には記載されている。

(明治31年勅令第90号・閏年ニ関スル件) 尚、東北地方では、神武天皇に殺された長髄彦の兄安日彦が津軽に亡命した事をもって日本の建国としている。

(中尊寺文書、平泉雑記など) 4-2). 国号の成立から現在まで 「日本」という国号が成立したのは701年前後と推定される。

『隋書』、『旧唐書』、『新唐書』等に記された遣隋使の報告には「倭国と日本国は別の国であり、併合して日本国となった[10]」とあるが、これは一般には天武天皇が弘文天皇の近江朝廷を滅亡させた壬申の乱を表していると解釈されている。

平安時代の貴族の会話[要出典]の中で、日本国が中国に対して「日の本」即ち東方にある事をもって日本としたと説明されており、畿内においては東方の飛鳥地方を日本(ひのもと)と呼び、更には朝廷から東方にある関東地方や東北地方を長らく「日本」と呼んでいた事からも、この説が妥当であるとする見解がある。

但し、景行期に東海地方以東の蝦夷の国を「日高見国」と呼んでいた事から反論も根強く、日本国号の起源について未だに定説は見られない。

朝廷は8世紀から拡大策を強め、東北の蝦夷や九州の隼人等を服従させる事により、徐々に拡大を続けた。

之以後の主な対外戦争には、白村江の戦い、刀伊の入寇、元の蒙古襲来、応永の外寇、文禄・慶長の役等がある。

この間に「日本」と呼ばれる地理的領域は北上し、日本は東北沿岸から津軽、更には北海道東部のアイヌ部族の呼称として移動していった。

又モンゴル帝国において、ようやく大和朝廷の対外的呼称が「日本」に固定される様になり、権力者層に次第に日本意識・日本人意識が貫かれる様になった。

18世紀になると、シャクシャインの乱やロシア帝国との接触で北方への関心が強まり、アイヌ及びロシアへの他者意識として日本観・日本人観が江戸の庶民に定着していった。

之に応じて日本の指す領域は南下し、アイヌ居住地である蝦夷ガ島(北海道)以南が日本と意識される様になった。

19世紀になるとアメリカ合衆国始めヨーロッパ各国への他者意識として日本観・日本人観がいよいよ定着し、現代の日本観・日本人観にほぼ一致する様になった。

19世紀半ば以降、欧米列強の国家形態に触発される形で、天皇を中心とした近代国家を創出しようという試みが起こり、朝廷、幕府、藩によって分割統治されていた時代が終焉、近代的な意味での「日本国」が成立した。

明治維新と呼ばれる近代化政策が実行され、1871年の廃藩置県と翌1872年の琉球処分を通じて、ほぼ現在の領土が確定した。更に大日本帝国憲法を日本人自身の手で書き上げ、1889年に施行され、翌1890年に二院制からなる議会政治を作り上げた。 その後日清戦争と日露戦争に勝利した。

20世紀前半には台湾や朝鮮半島を併合した。

第一次世界大戦では連合国側として参戦、南洋諸島の委任統治を行った。

大戦後の自由な空気の中で、様々な政治的改革も試みられ、普通選挙の実施、政党内閣の慣例化など大正デモクラシーと呼ばれる政治運動が起こった。

1930年代になると社会の動揺から、軍部の発言力が増大し、満州事変を通じて事実上の傀儡政権として満州国(中国東北部)が建国されると、大陸との摩擦が深まり、ついには日中戦争へと発展した。

日本軍は東南アジアのほぼ全域にまで進出し、外交においては既に欧州において始まっていた第二次世界大戦の枢軸国側と協調した。

結果米国を中心とする連合国と決定的に対立、太平洋戦争(閣議決定では、支那事変(日中戦争)を含め対米英戦争を大東亜戦争と呼称すると決定した)へと発展した。

1945年に連合国のポツダム宣言を受諾。 無条件降伏を受け入れ第二次世界大戦は日本を始めとする枢軸国の敗北で終結した。

戦場となった地域の多くでは多数の民間人が犠牲となり、日本の国土も首都東京を始め空襲により焦土と化した。

又、この際、広島と長崎に原子爆弾が使用されている。

敗れた日本は、それまで拡大した領土の大半を失い、アメリカ合衆国を中心とする連合国軍の占領下に置かれた。

文字通り各国の総力戦となりこの戦争の遂行過程で様々な戦争犯罪があったとされ、現在も世界中で様々な議論を呼んでいる (日本が加害者とされる者は「日本の戦争犯罪」、被害を受けた者は「戦争犯罪」等の項を参照) 第二次世界大戦後の日本は、軍国主義の否定によって再出発した。 

その拠り所が日本国憲法である。 日本国憲法は1946年11月3日に大日本帝国憲法を改正する形で連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の元に公布され、1947年5月3日施行された。

日本国憲法では、天皇を国の統合の象徴とする事や主権が国民にある立憲民主制国家として再生させる事及び、紛争の解決手段としての戦力の保持及び交戦権を放棄する事等が示され、国号も日本国と改めた。

・1950年に隣国朝鮮半島で、朝鮮戦争が勃発した。 GHQの指示により、警察予備隊(後の自衛隊)が設立され、事実上の再軍備の道を辿った。

・1951年にサンフランシスコ平和条約を締結し、日本と連合国は講和した。

・1952年4月28日、日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)の発効により占領は終了し、独立を回復した独立回復後の日本はその基本理念として一切の軍国主義を否定し、アメリカ合衆国とは同盟関係を結んだ。

・1955年に、保守政党である日本民主党と自由党が合同し55年体制のもとで長期安定政権を確立した。

その後、日本は高度経済成長を迎え、経済は驚異的な勢いで発展した。 東京オリンピックや日本万国博覧会の開催は、戦後の日本が国際社会に復帰する事の象徴にもなった。

・1968年、1972年には日本の領土とされながらも、施政権を喪失していた小笠原諸島と沖縄の施政権が米国から返還された。

現在では、発展途上国のための支援ODAなどを行い、世界の平和や相互理解に一定の役割を果たすまでになった。

近年は先進国として国際紛争解決の為に国連平和維持軍の一員として、日本が軍隊派遣をするかどうかが議論の対象となっている。

しかし現在の日本国憲法下では軍事力の放棄が記されている事等の為、自衛隊の派遣については日本国内で賛否が分かれている。 現在は憲法改正の動き等も見られ、活発な議論が行われている ・

1999年8月13日に国旗及び国歌に関する法律(通称:国旗・国歌法)で、国旗は日章旗(通称:日の丸)、国歌は君が代と定められた。 4-3).

今後の課題 数々の異例の大躍進に支えられて現在の地位を確立した日本も、問題を抱えていない訳ではない。 急速に進む高齢化と出生率の低下は、可也りの部分を国民の技術に依存してきた国力を削ぎかねないとの意見がある。

又、2007年に各自治体の財源を襲うと言われている「団塊の世代」の大量退職に伴う退職金の支給問題や、若年層を中心に広がる所得格差、又依然として低いレベルに留まっている国民全体のコンピューターのソフトウェア技術に対する分不相応の理解度は、既に各所で問題を引き起こしつつあるとされており、インドや中国の後塵を拝しつつあるとも言われる。

5).日本民族、日本の民族問題、及び 日本の外国人も参照 日本人の起源は、いわゆる縄文人、弥生人を基調とし、古代には中華世界から「倭人」と呼ばれた人々が中心となっているとされているが、日本人の起源そのものについては諸説あり、定かではない。

自称としては「和人」、或いは近代的民族意識の下では「大和民族」とも言う。

古代からの天皇を頂点とする近畿地方の朝廷と、中世以降における天皇を支配の正統原理として後ろ盾とする武家政権との、二重構造で成立していた中央政権の支配下に入った地域の住民が、固有の日本人とされる。

中世以降、沖縄(琉球)に成立し南西諸島の大半を支配下に置いた琉球王国、及び北海道・千島列島・樺太南部(蝦夷地)に居住したアイヌ(ウタリ)については、其々「南の日本」、「北の日本」とも称される。

之等の地域に住む人々は、弥生時代以降、「中の日本(主要な3島及びその周辺島嶼を指す)」とはやや異なる歴史を歩んだ経緯があり、固有の民族性を発達させた。

ただ、元来、鎖国基調にあった、中の日本に対し、琉球は南方で、アイヌは北方で其々大陸勢力との接触・交流を担っていたという構造が背景にあり、中の日本は限られた窓口を通じての大陸勢力との直接接触を除くと、琉球、アイヌを通じて間接的に大陸勢力と接触していた側面が色濃い。

尚アイヌと共に樺太にいたウィルタ、ニヴフは、樺太南部へのソビエト侵攻と占領後、北海道や本州へ移住した。 今でもロシアに対して樺太南部の返還を求める声も僅かながらある。

又、小笠原諸島には19世紀初頭ハワイから植民団が入植し、ヨーロッパ系アメリカ人やハワイ人による小規模なコロニーを形成したが、明治維新後日本領有が確定し、ヨーロッパ系、ハワイ系住民は順次日本国籍を取得し、日本人社会に溶け込んでいった。

アイヌ人は現在でも民族的・文化的独自性を保持し、二風谷ダム訴訟判決でも日本における先住性が確認された。 又アイヌ文化振興法が制定され、アイヌ語やアイヌ文化の保持・発展に国も積極的な支援を行う事となり、アイヌ語話者も少しずつ増えてきている。

又、明治維新以降、20世紀に入り、伝統的に大陸勢力との繋がりが深い朝鮮半島や台湾を併合し、更に軍事的、政治的、経済的に激しく中国に食い込んでいった為、之等の地域の出身者も、日本国籍取得者(帰化者)、外国人登録者(永住者)の双方の形態で、比較的多数の住民として抱えていく事になった。

現在総人口の約1.5%が外国人登録者である。 韓国籍、朝鮮籍、中国籍、台湾籍、ブラジル国籍、フィリピン国籍等が多く、韓国・朝鮮籍を除けば増加傾向にある。

韓国・朝鮮籍、及び中国籍については、戦前の旧日本領出身者及びその子孫が多く、最近では中国残留孤児や家族の永住帰国も多い。

又最近の外国籍増加の背景には、1990年の入管法改正でブラジル等に移民した日本人移民及び子孫の、日本での就労が自由化された事が大きい。

6). 日本の範囲 ・最東端:東京都南鳥島(北緯24度16分59秒・東経153度59分11秒) ロシア占領下で帰属が微妙な千島列島占守島小泊崎(北緯50度・東経155度)を最東端とする意見もある。

・最西端:沖縄県与那国島西崎(北緯24度26分58秒・東経122度56分01秒) 正式な「日本の最○端」のなかで唯一、公共交通機関で誰でも自由に訪れることができる場所である。

最南端:東京都沖ノ鳥島(北緯20度25分31秒・東経136度04分11秒) 人の住む最南端としては、沖縄県波照間島(北緯24度2分25秒・東経123度47分16秒) 最北端:北海道択捉島カモイワッカ岬(北緯45度33分28秒・東経148度45分14秒) 北方領土を除く最北端は、北海道稚内市弁天島(宗谷岬;北緯45度31分13秒・東経141度56分27秒) ロシア占領下で帰属が微妙な千島列島阿頼度島最北埼(北緯50度55分30秒・東経155度32分)を最北端とする意見もある。
do_decolink('diary_body')

0 件のコメント: