2007年7月18日水曜日

反省しなければならない「ゆとり教育」!

ゆとり教育とは、

学習者が詰め込みによる焦燥感を感じない様、自身の多様な能力を伸張させる事を目指す教育理念の事である。

以下では特に断り書きがない限り、日本での事例について述べる。

1). 概念 1-1). 知識重視型教育 ゆとり教育以前の知識重視型教育は、元々第二次世界大戦降伏後(1945年以降)の経験主義的な教育に対する「学力が低下している」という批判による教育方針転換の結果でもある。

又、学習指導要領が法的な性質をもつようになったのも1958年(昭和33年)以降であり、それまでは学習指導要領の名称も試案とされており、法的な性質はなかった。

2). 経緯 1977年(昭和52年) 学習指導要領の全部改正 (1980年度〔昭和55年度〕から実施) 学習内容、授業時数の削減。

1989年(平成元年) 学習指導要領の全部改正 (1992年度〔平成4年度〕から実施) 学習内容、授業時数の削減。 小学校の第1学年・第2学年の理科、社会を廃止して、教科生活を新設。

1992年(平成4年)9月から第2土曜日が休業日に変更。

1995年(平成7年)4月からはこれに加えて第4土曜日も休業日となった。

1999年(平成11年) 学習指導要領の全部改正 (2002年度〔平成14年度〕から実施) 学習内容、授業時数の削減。 完全学校週5日制の実施。

「総合的な学習の時間」の新設。

2004年 国際的な学力比較調査(PISA2003, TIMSS2003)の結果が発表され、日本の点数低下が問題となる。

2005年 中山成彬文部科学大臣、学習指導要領の見直しを中央教育審議会に要請。

次年度より指導要領外の学習内容が「発展的内容」として教科書に戻る。

3). 結果 ゆとり教育(ここでは平成10年度から11年度にかけて告示された指導要領を指す)は、学力低下を引き起こすと心配されていた。

成果については(文部科学省内においてすら)定まってはいない[1][2]。

学力低下に関わる議論においてはゆとり教育は批判されている

3-1). 試験結果 学力の上昇を示すもの、低下を示すもの、共にあるのが現状である。

例えば、ゆとり教育見直しの機運が高まるきっかけとなった国際数学・理科教育動向調査(TIMSS2003 2003年にIEA(国際教育到達度評価学会)が実施)[1]では、中学2年生の数学は前回のTIMSS1999年よりも9点、前々回のTIMSS1995よりも11点、いずれも有意に低くなっており(順位は5位の儘)、数学が楽しいと思う者の割合も減少している。

一方で、平成15年度 小・中学校教育課程実施状況調査(2003年に国立教育政策研究所が実施)では、多くの学年、教科で前回調査と同一の問題については、正答率が有意に上昇した設問が、正答率が有意に下降した問題よりも多かった。

特に、小学生と中学3年生の学力向上が顕著で、理科では前回より正答率が上昇し、アンケートで「勉強が好き」「どちらかというと好きだ」と答えた子の割合は増加傾向にある。

その他結果の詳細は、学力低下#試験・調査結果を参照されたい。

4). 方針転換 2005年に中山文部科学大臣が中央教育審議会に、学習指導要領の見直しを指示した。

又、教育再生会議(内閣府設置会議)が出した報告書(第1次:2007年1月24日 第2次:2007年6月1日)において、「授業時間の10%増(必要に応じて土曜日授業の復活)」等が盛り込まれている。

5). 様々な議論 5-1). 学力低下の原因? 今日の世論では、ゆとり教育の実施による学習内容の削減が基礎学力の低下を招いているという批判・否定的な意見が非常に多い。

(一部の塾・学校等では、ゆとり教育が開始される以前からこの様な世論になる事を予想していた) その一方で、基礎学力の低下の原因がゆとり教育と決め付けてしまうのは難しく他にも原因があるのではないか、等の意見もある。

詳細は学力低下を参照。 又、基礎学力の低下により中学高校での学習に支障が出ているとの指摘もある。

しかし、こうした現象の背景には生徒数の減少による受験圧力の低下があるという説(小川、2000年)や学級崩壊との関連もあり、一概に学習指導要領の内容のみに責を帰すべきものかどうか、結論は出ていない。

5-2). 格差を固定する? ゆとり教育が学力低下を引き起こすという危惧から、親は児童・生徒を学習塾に通わせる様になっている[3]。

之によって、学力格差が発生しているという意見がある。 詳細は学力格差を参照。

但し、教育エートスの差異は1960年代の高度成長期に由来するとの説もある。 即ち、高度成長期に「金の卵」として都市部に出てきた人々の子供・孫の家庭では積極的に教科学力を獲得させようとする意欲に乏しい事が多く、こうした層の子弟が大学全入時代における受験圧力の消失によって完全に学校教育への意欲を失い、学習放棄をしているとの説である[4]。

6). 指導要領の解釈のブレの問題 従来、学習指導要領に示される学習内容は、「到達目標」(教育目的における十分条件)とされてきた。

しかし、実際には「これ以上教えてはいけない」という硬直的な解釈もまかり通り、学習内容の削減と共に学習進度の早い児童・生徒(浮きこぼれ等)に対する対処が問題となった。

2002年(平成14年)に文部科学省は、学習指導要領の内容を最低基準と位置づけ、発展的な学習内容を教科書に掲載したり、各学校で発展的な学習の指導を行っても良いという方針に改めた。

(尚、この方針は、“発展的な学習の指導を行わなければならない”という訳ではなく、“学習指導要領に定めた最低基準を満たし更に余裕のある児童・生徒に対し、その実態に合わせてさらに発展的な学習の指導を行っても良い”という物である) この事と整合性をとる為、2005年の教科書検定では小中学校の教科書にも発展的な内容の記述が容認された。 7). 総合的な学習の問題 ゆとり教育によって導入された「総合的な学習の時間」は、教員や児童・生徒の力量・意欲が高い場合は成功しやすく、そういった要素に左右されるという欠点を持つとされる。

実際、総合的な学習の時間を有意義に使う学校もある一方で、単に不足している授業時間の補完等学力向上に使う等という所も少なくなかったとされる。

ただ、基礎学力が低い生徒は、「総合的な学習の時間」の目的とされる「主体的に考える力」等も低くなる傾向がある[5]。

8). デンマーク ゆとり教育をすすめていたデンマークでも、国際学習到達度調査(PISA)の結果が下がり、学力低下が議論になった。 教育改革として、義務教育の1年早期化などが議論されている[6]。

学校の現場では、学力向上を目指した教育改革に反発がある物の、生徒の親は学力低下への不安が強い[6]。

9). 脚注 [ヘルプ]^ 2005年4月23日付配信『「好成績」戸惑う文科省 なぜ、上向いたのか』(毎日新聞)

1^ 2007年4月14日付配信『ゆとり教育:学力向上にプラスかマイナスか 揺れる評価』(毎日新聞)

2^ 2005年12月15日付 『小学生の塾費用16%増加 学力低下の不安から』朝日新聞

3^ 小川、2000年

4^ 『「学力低下」の実態』:ISBN 978-4000092784 2002年 苅谷剛彦・清水睦美・志水宏吉・諸田裕子

5^ a b 『デンマークで“ゆとり教育”見直し』2006年7月4日付配信 読売新聞

10). 関連項目:教育社会学 - 教育問題 新学力観 - 学力 - 生きる力 学習指導要領 - 中央教育審議会 - 文部科学省 総合的な学習の時間,学校週5日制,学校 - 学習塾、学力低下 落ちこぼれ - 浮きこぼれ、円周率は

3、学力格差、教育格差 少子化、ゆとり世代 寺脇研(元文部官僚で「ゆとり教育」推進者としてマスコミの前面に幾度となく出ては同省の見解のスポークスマン的な役割を担っていた。

) 日本教職員組合(自社さ政権以降、文部省中央教育審議会に委員を送り出すようにもなった。) PISA(学習到達度調査)

11). 参考文献 山内乾史・原清治編著 『リーディングス 日本の教育と社会1 学力問題・ゆとり教育』 日本図書センター、2006年。ISBN 4284301160 伊藤敏雄 『誰も教えてくれない教育のホントがよくわかる本 ゆとり教育になって学校はどうなった?』 文芸社、 2006年。

ISBN 4286009548 藤田英典 『義務教育を問いなおす』 筑摩書房、2005年。

ISBN 4-480-06243-2 陰山英男 『学力の新しいルール』 文藝春秋、2005年。

ISBN 9784163674803 苅谷剛彦 『教育改革の幻想』 筑摩書房、2002年。

ISBN 4480059296 苅谷剛彦 『なぜ教育論争は不毛なのか』 中央公論新社、2003年。

和田秀樹 『「ゆとり教育」から我が子を救う方法』 東京書籍、2002年。 藤原和博 『公教育の未来』 ベネッセコーポレーション、 2002年。

ISBN 4-8288-3712-4 寺脇研 『21世紀の学校はこうなる―“ゆとり教育”の本質はこれだ』 新潮社、2001年。

ISBN 4-10-290067-5 西村和雄 『ゆとりを奪った「ゆとり教育」』 日本経済新聞社、2001年。

ISBN 4-532-14916-9 斎藤貴男 『機会不平等』 文藝春秋、2000年。

ISBN 4-16-356790-9 小川洋 『なぜ公立高校はダメになったのか―教育崩壊の真実』 亜紀書房、2000年。ISBN 4-7505-9903-4 12). 外部リンク:新学習指導要領 - 文部科学省 平成15年度 小・中学校教育課程実施状況調査 -国立教育政策研究所 あなたはどの指導要領?

「ゆとり見直し」先行 第4期中教審 朝日新聞2007/2/5 学習指導要領の変遷図 - 教心ネット 3+2×4=20?どうなるゆとり世代の学力 All About ゆとり教育で学力が向上した ~逆風を追い風に変えた京都の教育改革 ドーなってるの?

ゆとり教育 この「ゆとり教育」は、教育に関連した書きかけ項目です。この記事を加筆、訂正などして下さる協力者を求めています。

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2007年7月16日月曜日

ペンネ-ムの色々な読み方の意味が解りますか?

最近の作家の中には、本名を使う人もいますが、やはり作家と言えば、ペンネ-ムが付き物です

①永井荷風は恋人に因んだ名前。  

荷風と言うペンネ-ムは、初恋の人、お蓮さんに寄せる慕情をひそかに胸に秘めて、「蓮」を「荷」にかえて、その香りを慕うと言う意味で、恋人に因んだ名前と言われています。

②二葉亭四迷は親父の怒鳴り声。

明治初期の文人で「浮雲」や「平凡」で有名な二葉亭四迷は、小さい頃に本ばかり読んでいたので、父親から「お前の様な奴はくたばってしめえ」と怒鳴られた事があり、それをもじって ペンネ-ムにしたというのは有名なお話です。

③外国人の名前を日本名にした作家達。

有名な推理作家江戸川乱歩は、アメリカの探偵小説家のエドガ-・アラン・ポ-を日本名にして、ペンネ-ムとした物ですが、こうしたペンネ-ムの付け方をした人は、この外にも沢山います。 又、東大出身の小説家三浦朱門は「赤門」と朱門を引っ掛けて、更にシモンをもじったもの。

④本名のアナグラムがペンネ-ムの江戸川乱歩賞受賞作家の泡 坂妻夫。

奇術師でもあり、推理作家でもある泡坂妻夫は、如何にも奇術師らしい奇抜な着想で、本名の厚川昌夫のアナグラムでペンネ-ムを作っています。 因みに、アナグラムとは、名前を構成している文字「あ・つ・か・わ・ま・さ・お」をバラバラにして並べ方をかえて「あ・わ・さ・か・つ・ま・お」と別の名前を考え出す事です。

⑤直木賞作家の色川武大のもう一つのペンネ-ムは麻雀の最中に誕生! 色川武大と言う小説家には、もう一つ雀士と言う顔があります が、この時の名前が阿佐田哲也、文字面から見ると、如何にも実名のようですが、実は、夜を徹して麻雀をやっている内に気がついてみたら、もう朝だったと言うので、「アサダテツヤ」と言う名を付け、当て字をしたものだそうです。

⑥芸能人にも多い変った芸名。

芸能人の中にも自分が尊敬する人の名をもじって付けた人がいます。 例えば益田喜頓はバスター・キ-トン、谷啓はダニ-・ケイを其々もじったものです。 又、タモリは本名の森田をひっ繰り返してカタカナにしたもので、愛称が其の儘芸名になった模様です。

皆さんもこんなペンネ-ムや芸名を知っている人教えて下さい! ●ペンネ-ムの由来事典 タイトル: ペンネ-ムの由来事典 責任表示: 紀田順一郎 著 出版地 : 東京 出版者 : 東京堂出版 出版年 : 2001.9 資料形態: 331p, 20cm, 2600円 注記: 書誌注記:文献 あり ISBN: 4-490-10581-9 全国書誌番号: 20200237 NDC : 910.26 ... http://refsys.ndl.go.jp/biblio.nsf/d1523b1894bbba1e49256a... - 3k - キャッシュ - 別ウィンドウ表示 - サイト内検索 ●詳細表示画面 請求記号: KG311-G193 タイトル: ペンネ-ムの由来事典 責任表示: 紀田順一郎 著   出版地 : 東京   出版者 : 東京堂出版   出版年 : 2001.9   資料形態: 331p, 20cm, 2600円   注記: 書誌注記:文献あり   ISBN: 4-490-10581-9   全国書誌番号: 20200237   NDC : 910.26   書誌ID: 000003024125 解題:号や筆名の由来が判明している近現代の物故作家(約250人)を取り上げて、人名の五十音に排列し、略歴とその由来を解説。巻末に現存作家を含む、この本に掲載した作家を五十音順に並べ、その本名を記載する「号・筆名一覧」を付す。

2007年7月15日日曜日

日本人は江戸時代に数学のレベルは高かったか?

 私達が、今使用しているのは西洋数学です。

エジプトに端を発し、ギリシャをへて、何千年の歴史の中から成立して来た物です。

ところで、日本には和算という数学がありました。 之は、江戸時代の初期に始まったもので、幕末時代には、西洋数学のレベルに達していたというのです。

西洋では何千年も掛かって、大学者が研究してきた数学を日本では僅か300年足らずの期間に、それも町や村の庶民の間に根を下ろし、研究され、高度にに発達して来ているのです。

この江戸時代の数学が、どんなに一般庶民の物であったかは、各地の神社、仏閣に掲げられた算額から、良く分かります。 「算額」というのは、自分が解いた数学を、額に書いて神仏に掲げるもので、初めは「数学絵馬」といっていました。

額には問題、答え、解き方、幾何学図形、そして、先生と自分の名前等が書かれています。 例えば、京都の八坂神社にあるものは、当時の数学者、長谷川(りんかん)が掲げた物で、現代数学でいえば、七十次方程式で無ければ解けない様な問題らしいです。

岩手県の竜泉寺に掲げられた物は三七桁という大きな数の、二六乗根を出せという物で、横二メ-トルもある額一杯に計算がしてあるらしいです。

京都の安井金比羅宮に在る物は、現代数学の等比級数に当る物で、どうやら子供が習った物らしく、四季の数学という題で、分りやすく出題してあります。

日本中には、この様な算額が数多く残っているそうです。 この算額の名前を見ると鳥居の政松とか、樽尾の平吉とか、(そまし=きこり)の文蔵等という素朴な名前が多いのです 今は西洋数学の押されて、影の薄く成った和算ですが、江戸時代には実に多くの一般庶民が勉強し、しかも、其れが高いレベルに達していたかを再認識して頂きたいです!

和算とは日本独自に発達した数学である。 江戸時代には大いに発展し、西洋とは独自に積分の発見等がなされた。

1). 歴史:和算は中国の数学から多大な影響を受けている。

中国では「九章算術」と呼ばれる数学書が漢代には登場していた。

「九章算術」では面積の計算法、比例、反比例、ピタゴラスの定理などが紹介されている。

7世紀以降、遣隋使、遣唐使の派遣などにより、中国の文化が日本に次々と流入する様になる。

中国の律令制を元に作られた大宝律令(702年)では、算博士と呼ばれる官職が定められていた。

算博士は「九章算術」を始めとした中国の算書の知識が要求された。

万葉集(成立は759年以前と見られる)には次の様な歌がみられる。

若草乃 新手枕乎 巻始而 夜哉将間 二八十一不在國 (わかくさの にひたまくらを まきそめて よをやへだてる にくくあらなくに 巻十一 2542番) 「くく」という読みに「八十一」という漢字が当てられており、既に九九が日本で知られていた事がわかる。

江戸時代に和算は大いに発展した。 このきっかけになったのが1627年(寛永4年)、吉田光由によって書かれた塵劫記(じんこうき)である。

明代の算術書『算法統宗』(さんぽうとうそう)を模範とした物で、そろばんの使用法や測量法といった実用数学に加え、「継子立て」や「ねずみ算」といった数学遊戯が紹介されている。

『塵劫記』はベストセラーとなり、初等数学の標準的教科書として江戸時代を通じて用いられた。

江戸時代には、整数論、解析学といった高等数学も関孝和などの和算家によって発展した。

主に師弟関係で継承されてきた為、あまり一般に知られる事はなかったが積分の発見、整数論等の分野では西洋での発見と同時期、分野によってはより早く発見されていたものもある。

関孝和は1683年の『解伏題之法』にて行列式理論を発見している。

又、円に接する正多角形の辺の長さを用い、円周率を11桁まで得ている。

関の弟子である建部賢弘は級数展開を用いる事で、42桁まで正しい値を計算した。

安島直円(1739年-1798年)、和田寧(1787年-1840年)らによって和算の積分術は発展した。

之により、複雑な図形の面積や、立体の体積が計算できる様になった。

和算における多くの成果は各流派の中で秘伝とされ続けてきたが、関流算術を学んだ久留米藩主 有馬頼徸(1714年-1783年)は、1769年に出版した著書『拾璣算法』において関流の秘伝を公開し、和算文化の向上に大きな貢献を果たした。

明治時代に入り、西洋の数学が浸透するのに伴い、和算は衰退してしまった。

2). 算木とそろばん 算木を用いた数の表記和算で用いられる道具として、算木とそろばんが挙げられる。 いずれも『算法統宗』に使用法が紹介されている。

又、『塵劫記』にはそろばんの使用法が記載されている。 そろばんは会計等、広く用いられたのに対し、算木は専ら和算家によって使用され、天元術と呼ばれる解法によって代数方程式などの計算に用いられた。

天元術では、算盤(さんばん)と呼ばれる表と算木を用いた。

算盤とは碁盤の目状になった表であり、各列が一、十、百、千、万といった桁を表し、各行は商(答え)、実(定数項)、方(x)、廉(x2)、隅(x3)、三乗(x4)...と代数方程式の解及び各係数を表した。

各升目に置かれた算木を並べ替える事で、代数方程式を解いていった。 関孝和は算木を用いずに筆算により代数方程式を解く計算法を編み出した。

この方法は後に点竄術(てんざんじゅつ)と呼ばれ、和算の中心的な手法となった。

3).算額(さんがく)とは、額や絵馬に数学の問題や解法を記して、神社や仏閣に奉納した物である。 平面図形に関する問題の算額が多い。

数学者のみならず、一般の数学愛好家も数多く奉納している。

算額は、数学の問題が解けた事を神仏に感謝し、益々勉学に励む事を祈願して奉納されたと言われる。

やがて、人の集まる神社仏閣を数学の発表の場として、難問や、問題だけを書いて解答を付けずに奉納するものも現れ、その問題を見て解答を算額にしてまた奉納するといった事も行われた。

算額奉納の習慣は世界に例を見ず、日本独自の文化である。

明治時代になり鎖国が解けると、日本には洋算が導入される様になったが、この導入を容易にした事にも算額を奉納する風習が貢献した。

1997年に行われた調査結果によると、日本全国に975面の算額が現存している(『例題で知る日本の数学と算額』森北出版株式会社による)。

之等現存する算額で最も古いものは栃木県佐野市にある星宮神社にあり、1657年に掲げられたとされる。 4).和算の発展に関わった人物:毛利重能、吉田光由、関孝和 ★中根元圭:和算家。

「律原発揮(元禄5年、1692年)」において1オクターブを12乗根に開き十二平均律を作る方法を発表した。 ★建部賢弘:(たけべ かたひろ、寛文4年(1664年)~ 元文4年(1739年))は、江戸時代中期の数学者。

父は旗本の建部直恒。号を不休。 幼少から関孝和の門人となり、1716年(享保元年)将軍徳川吉宗の信頼を得、「日本総図」を作る。

関孝和の後継者という存在になり、その解説書を多数著作する 孝和の兄の賢明ら3人で著作した「大成算経」20巻は当時の和算学を集大成した労作である。 又、天文・暦学の業績も残した。

・著書:『日本総図』、『大成算経』 "http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%BA%E9%83%A8%E8%B3%A2%E5%BC%98" より作成 カテゴリ: 1664年生 1739年没 17世紀の数学者 18世紀の数学者 日本の数学者 江戸時代の人物 5). 関連項目:算法少女、絵馬

6). 参考文献 『例題で知る日本の数学と算額』深川英俊著 森北出版株式会社 ISBN 4-627-01641-7 『「数」の日本史』伊達宗行著 日本経済新聞社 ISBN 4-532-16419-2 『和算史年表』佐藤健一・小寺裕著 東洋書店 

ISBN 4-885-95378-2 "http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E7%AE%97" より作成 カテゴリ: 算術 数学史 数学に関する記事 ●毛利 重能(もうり しげよし、生没年不詳)は江戸時代前期に活躍した和算家で、現在知られている中では最も古い。

通称・勘兵衛、官位・出羽守。 当初、豊臣秀吉に仕えて出羽守となり、明に留学して算術を学ぶ。

大坂の陣では同姓の誼で毛利勝永の部隊にいたとある。著書『割算書』(通称)は、『算用記』と共に江戸時代初期を代表する貴重な和算書である。 『割算書』の奥付には、「摂津国武庫郡瓦林から京都へ移り住み、“割算の天下一”という名(割算天下一指南の看板)の下に塾を開いた」と書かれている。

後の代表的な和算家吉田光由や今村知商、あるいは関孝和の師匠でもあった高原吉種などの弟子達を育てた事でも有名である。

 門弟は数百人にも上ったとある。 この吉田光由・今村知商・高原吉種は俗に「毛利の三子」と呼ばれた高弟である。 熊野神社内に昭和47年に「毛利重能顕彰碑」が建立され、その傍らに昭和48年建立の「算学神社」がある。  

この項目「毛利重能」は、数学に関連した書きかけの項目です。

加筆・訂正などをして下さる協力者を求めています。 (ポータル 数学/ウィキプロジェクト 数学) "http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E9%87%8D%E8%83%BD" より作成 カテゴリ: 日本の数学者 16世紀の数学者 17世紀の数学者 数学に関する記事 数学関連のスタブ項目 ●吉田 光由(よしだ みつよし、慶長3年(1598年)~ 寛文12年11月21日(1673年1月8日))は、江戸時代前期の和算家。

京都の豪商角倉家の一族。久庵と号す。 角倉了以は外祖父にあたる。

初の和算家毛利重能に師事した。 後一族の角倉素庵のもとで中国の数学書『算法統宗』の研究を行い、それを元に1628年(寛永5年)、著書『塵劫記』を出版した。 同書は絵を多用し基礎から応用まで容易に学習出来る様に書かれた数学入門の模範と評価された。

晩年には失明し、寛文12年75歳で没した。 "http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E5%85%89%E7%94%B1" より作成 カテゴリ: 江戸時代の人物 日本の数学者 16世紀の数学者 17世紀の数学者 数学に関する記事 1598年生 1673年没 ●関 孝和(せき たかかず、寛永17年(1642年)3月 - 宝永5年10月24日(1708年12月5日))は、江戸時代の和算家(数学者)である。

本姓内山氏、通称新助。字は子豹、自由亭と号した。 ★ 生涯と業績 関孝和は上野国(群馬県)の藤岡市で幕臣の家に生まれ、幼少時から、吉田光由の『塵劫記』を独学で学び、後に、そろばんや算木から抜け出し、独自の和算の世界を創始する。

甲斐国甲府藩(山梨県甲府市)の徳川綱重、徳川綱豊(徳川家宣)に仕え、綱豊が6代将軍となると直参として江戸詰めととなり、西の丸御納戸組頭に任じられた。 延宝2年(1674年)、『発微算法』を著し、筆算による代数の計算法(点竄術-てんざんじゅつ)を発明して、和算が高等数学として発展するための基礎をつくった。 他には円周率を正131072角形を使って、小数第11位までを求めている。

ニュートン・ライプニッツとほぼ同時期に微分・積分の一歩手前までたどり着いたとして知られるが、和算が自然科学から独立して発展してしまった為にそれ以上の発展を見られなかったと言われるが、ニュートンとほぼ同時期に微分・積分の一歩手前まで辿りついていたという意見には、色々な議論が交わされている。 数学者の藤原正彦氏は辿りついていたと主張している。

関は、ヨーロッパでライプニッツが行列式の概念に到達する以前に独自に同じ概念を研究していた(天和3年(1683年))。

又ヤコブ・ベルヌーイに先駆けてベルヌーイ数を発見していた事も知られている。 関はそれ以前の中国、日本の数学を吸収した上で、そのレベルを飛躍的に向上させ、後の和算の伝統を作った。 宝永5年10月24日(1708年12月5日)、病に倒れて死去。 東京都新宿区の浄輪寺に葬られている。

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E5%AD%9D%E5%92%8C" より作成 カテゴリ: 日本の数学者 数学に関する記事 17世紀の数学者 18世紀の数学者 1642年生 1708年没 ●有馬 頼徸(ありま よりゆき、1714年12月31日(正徳4年11月25日)~1783年12月16日(天明3年11月23日))は、筑後国久留米藩の第7代藩主。第6代藩主・有馬則維の五男。 母は小林氏。正室は京極宮家仁親王の娘。 官位は従四位下、左少将、玄蕃頭、中務大輔。 1). 生涯 1-1). 藩主として 享保14年(1729年)、16歳で家督を継いで藩主となる。

しかし若年の為、元文2年(1737年)までは藩政は重臣によって行なわれていた。

頼徸が政務を執り始めたこの年、久留米藩では飢饉が起こって危機を迎えたが、頼徸は之に対して領民を救う為、救済金や救済米を施した。 更に広く優れた意見を求めるため、徳川吉宗にならって目安箱を設置し、庶民の娯楽として猿楽の興行等も奨励した。

当時、九州では各藩で飢饉が起こり、それによって百姓一揆が頻発していたが、久留米藩でも頼徸が善政を敷いたにも関わらず、発生してしまった。

頼徸は之に対して一揆側の首謀者全員、更に藩の責任者である家老の稲次因幡や有馬石見らを処刑するという厳しさを見せた しかし後に、之等を慰める為に五穀神社祭礼を行なっている。

又、頼徸は有職故実や様々な法令に対して知識が深い教養人であった為、幕府からもその才能を認められて江戸増上寺の御火消役に任じられると共に、官位も之までの歴代藩主より更に上である左少将に叙任される事となった。

しかも狩猟で将軍が仕留めた鶴を拝領する事ができるという「国鶴下賜」を三度も受けている。 之は徳川御三家や伊達氏、島津氏、前田氏等の大藩しか賜らないという厚遇であった為、有馬氏は頼徸の時代に大大名と肩を並べる厚遇を受ける事となったのである。

1-2). 学問藩主・頼徸 頼徸は有職故実や法令等の知識に優れていた事もわかる様に、学問にも長けていた。 特に頼徸が優れていたのは和算であった。

和算は江戸時代前期に関孝和によって成立したもので、当時は代数式、行列式、円に関する計算等がそれであった。

頼徸はその和算に対して深く興味を持ち、関流の教えを継ぐ山路主住に師事して之を学んだ 頼徸は、それまでは52桁しか算出されていなかった円周率を、更に30桁算出し、少数の計算まで成立させた。 明和6年(1769年)には豊田文景の偽名で『拾機算法』五巻を著した。 之は、関孝和の算法を自分自身でさらに研究し進めた物を纏めた物である。

1-3). 死後と評価:天明3年(1783年)~70歳で死去。 後を長男の有馬頼貴が継いだ。

頼徸の治世は54年の長きにわたったため、また頼徸自身が優れた藩主だった事もあって久留米藩の藩政は比較的安定化し、頼徸はその治績から、「久留米藩の吉宗」と賞賛されるに至った 尚、頼徸と同時期の新発田藩の溝口直温や松江藩の松平宗衍ら教養人と並んで、「風流三大名」と称されたのである。

先代:有馬則維 有馬氏(久留米藩7代)藩主 1729 - 1783 次代:有馬頼貴 "http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E9%A6%AC%E9%A0%BC%E3%82%86%E3%81%8D" より作成 カテゴリ: 摂津有馬氏 江戸の大名 外様大名 1714年生 1783年没

2007年7月14日土曜日

日本と言う国名の由来は?

 日本の事を指す言葉に、古くは「大八州」(おおやしま)「秋津島」(あきつしま)「豊葦原瑞穂国」(とよあしはらのみずほのくに)「葦原中国」(あしはらなかつくに)「大和」(やまと)などがあり、中国では「倭」(わ)と呼んでいました。
  
  それが「日本」と定められたのは、大宝元年(701年)に制定された大宝律令によってです。

大宝律令は、日本最古の完成された成文法で(それ以前にも近江令、飛鳥浄御原令等の試作品はあったらしいです。)
日本と言う国は、生まれた時から「日本」であったと言って良いでしょう。

大宝律令の頃は、「日本」と書いて「やまと」とか「ひのもと」と読んでいましたが、奈良時代になると漢字の知識が広がり、訓ではなく音読みする様に成りました。

「にほむ」と発音していた様です。
之が時代が下がって、室町時代になると、東国の発音で読まれる様になり、{にほん」或いは「にっぽん」と成ったのです 現在は、{にほん」でも「にっぽん」でもどちらの読み方でも構いませんが、昭和九年の文部省臨時国語調査会では「にっぽん」に統一され一時期この呼び方が強制された事が在ります

 この時、東京の日本橋と「日本書紀」だけは例外に「にほん」と読んだと言いますから、考慮すると随分可笑しな話です。 英語のジャパンと言う呼び名は、マルコポ―ロの「東方見聞録」に載っている「ジパング」(黄金の島)からきています。 日本国(にっぽんこく・にほんこく)、通称日本は、ユーラシア大陸東端の日本列島を主な領土とする東アジアの島国である。

1).  概要:日本は、第二次世界大戦後に成立した日本国憲法を最高規範として、司法・行政・立法の三権が分立する(三権分立)法治国家である。
日本の国家理念ともいうべき立憲主義は、国民主権、それに基づく基本的人権の尊重、平和主義、の三つを基調としている。
日本国の国家元首については、日本国憲法で「天皇を日本国と日本国民統合の象徴とする」と表記されている為、元首に対して法的に明確な定めがない。 (国内の慣例、海外等の対応から天皇を事実上の元首と見る向きがあるが、論争がある) 日本の歴史は天皇が国家権威の中心(君主)であり続け

[1]、 世界的にも長い王朝と歴史[2]を包含する皇室制度をもった国家

[3]である。 現行憲法は天皇の国家象徴を規定しており、現在の日本は立憲君主制である[4]。

日本の経済力はGDP(MER: ドル時価換算)で世界第2位に位置している。

典型的な工業国である。 日本は、1975年の第一回先進国首脳会議からG8(当時はG6)の一翼を担い、世界経済に強い影響力をもち、国際社会における経済支援等において担う役割と責任は非常に大きい。

民族的には日本人(日本民族、大和民族、和人)が殆んどだが、日本国内に存在する他の少数民族としては、以下の物が挙げられる。 歴史上、北海道・樺太を中心に居住しているアイヌ民族・ウィルタ民族・ニヴフ民族。 旧琉球王国領域の住民を、琉球民族と捕える考え方もある。

19世紀の小笠原諸島への移民子孫で、ヨーロッパ系アメリカ人とハワイ人にルーツを持つとされる欧米系島民も日本国籍を取得して居住している。

かつて朝鮮・台湾が日本領であった時代に、日本国内に移住した人々の子孫である在日韓国・朝鮮・台湾人。

その他、ブラジル人等のラテンアメリカ人、漢族を始めとする中国人、フィリピン人やマレー人等の東南アジア人、インド人、スラブ人、アメリカ人、ヨーロッパ人、アフリカ人、アラブ人等、結婚の国際化等により、少人数ではある物の多くの民族が在住している。

東アジア出身者を中心に、日本以外の国籍の人々が帰化する例も見られる。 又日本を離れて外国に居住した日系人等も南北アメリカを中心に見られる。 国籍を取得していない者も多い。

使用言語はほぼ完全に日本語であり、慣習法として日本語が公用語になっている。

アイヌ民族のアイヌ語は話者が少なく、耳にする機会が少ない 旧琉球王国領域の琉球方言を、別言語として区別し、「琉球語」とする考え方もある。

地勢的には、島国であり、海上交易・漁業共に盛んな海洋国家でもあり、地政学上は典型的なシーパワーに分類される。

内海を含む領海、排他的経済水域等の水域面積は約447万平方キロメートルであり、之は国土面積の11.7倍である[5]。

位置はユーラシア大陸の東端に位置する台湾の東方にある与那国島から、サハリンの南方にある北海道までを領土としており、北から時計回りに、オホーツク海、日本海(韓国名:東海)を挟みロシア連邦、太平洋南側でアメリカ合衆国、北西フィリピン海海上でフィリピン、東シナ海をはさみ中華人民共和国、中華民国(日本国は承認していない)、日本海を挟み大韓民国、及び朝鮮民主主義人民共和国(日本国は承認していない)の計7国家・地域と接する。

又、南方にパラオ、小笠原諸島の延長線上にミクロネシア(北マリアナ諸島)がある。 太平洋をはさんでアメリカ大陸がある。

2).国名:国号(正式名称)には通常「日本国」が用いられる 憲法の題名として「大日本帝国憲法」及び「日本国憲法」の表記があるが、条文で「国号を日本国と称する」等と直接かつ明確に規定した法令はない。

「日本」の国号が成立する以前は対外的には「倭国」又は「倭」と書かれ、国内的には「やまと」と読まれた。

更に古くは実に多様な名があったらしく、「大和」、「葦原中国」又は「豊葦原千五百秋瑞穂国」、「中国」、「豊葦原中津国」、「豊秋津島」、「大八洲」、「磯輪上秀真国」、「細矛千足国」、「玉垣内津国」、等さらに多くの別名があった。

漢文由来の異称も、中国大陸の扶桑蓬莱伝説に準えた「扶桑」、「蓬莱」という呼び方を始めとして、「東海姫氏国」、「阿母郷」、「日下」、その他多様である。

対外的にも最も一般的な通称だった「倭国」は、7世紀頃に「日本」と改名されたと考える説が有力である(異説もある)が、当時は国内での読み方は「倭」でも「日本」でも、共に「やまと」であり、国内的には表記の変更にすぎなかったと考えられる。

(「日本」という名詞は、正式国名として採用される以前には、「扶桑」、「蓬莱」、「東海姫氏国」、「阿母郷」、「日下」、等と同様の語だった) 「ひのもと」という読み方は後に起こった。

「皇朝」は元々は中原王朝の天子の王朝をさす漢語であるが、日本では天皇王朝をさす漢文的表現として使われ、国学者は之を「すめみかど」又は「すめらみかど」等と訓読した。

「神國」、「皇國」、「神州」、「天朝」、「天子國」(國は国の旧字体)などは雅語(美称)としての「皇朝」の言い替えであって、国名・国号という様な物ではない。 「本朝」は「我が国」という様な意味であって之も国名ではない。

江戸時代の儒学者などは日本をさして「中華」、「中原」、「中朝」、「中域」、「中國」等と書く事があったが之も国名ではない。 「大日本」と大とつけるのは、国名の前に大・皇・有・聖等の字をつけて天子の王朝である事を示す中国の習慣からきている(「有漢、皇魏、聖晋、大宋、大清、大韓」等)。 しかし、「おおやまと」と読む場合はそれとは関係ない古称の一つである。 「帝國」は、元は「神國、皇國、神州」と同様であったが、近代以後は"empire"の訳語として使われる。

古代においては王国を束ねる盟主の意味があり、天子は一人であるとする中原王朝の反発を招いた他、朝鮮半島の王国も之に抗議した。

しかし本来は「山城国」等、日本六十六州の帝であり、主に中原王朝からの自立の意図でも用いられた。

「帝国主義」の語はカール・マルクスの亡命先である19世紀の覇権国家・大英帝国の意味であり、日本をその様な超大国と解するのは誤解を伴う部分もある。

明治時代から第二次世界大戦後までの国号は様々に変遷しており、従来の日本、日本国のほか大日本帝國、大日本國、日本帝國等も用いられ、端的に表す場合は単に「帝國」とも略された 戦後は主に「日本」或いは「日本国」でほぼ統一されている。

但し日本公式の印鑑である「国璽」は明治時代に作製された「大日本國璽」が使用され続けている。

日本政府は正式な読み方を明確に定めていない。

通商や交流の点で海外と関連のある紙幣、切手、スポーツの国際試合のユニフォーム等には「NIPPON」と描かれている事がある。

之は一説によると、ラテン語圏ではH音が発音されない為「ニオン」と呼ばれてしまうからという理由であるという。

之には英語の語感が"nip on"に通じ甚だ印象が悪い事から「NIHON」にすべしとの意見もあるが、外国語の事情に併せて自称を変更する事には賛否両論があろう。

現代では、スポーツの応援等元気をだす時、威勢をあげる時は「にっぽん」、詩的で優しく穏やかな文脈では「にほん」という様に、語感に応じて使い分けられる面もある。

「日本」の最初の用例は確実な物は決めがたい。

『日本書紀』は「倭」を遡って「日本」に書き改めているからである。

例えば『日本書紀』大化元年七月の条によって645年7月に高句麗や百済の使者に示した詔の「明神御宇日本天皇(あきつみかみとあめのしたしらすやまとのすめらみこと)」という語が最初とする見解もあるが之にも疑問がある。

語義としての「日本」は、有名な『隋書』大業三年(607年)の「日出づる処の天子」が知られるが、この頃はまだ「日本」とはされていなかった事が逆に証明される。

7世紀成立の中国の『旧唐書』には日本人が倭国の名称を嫌い、国名を日本に改めたとある。

「日本」という国名が最初に公式に定められたのは、701年施行の『大宝律令』とされるが、条文法規に定められる以前、天武天皇の頃から使われてはいただろう。

(「天皇」号の使用と「日本」号の使用は軌を同じくするとみられている。

(異説もある)近年発掘された飛鳥池遺跡出土の天武六年(678年)銘の木簡から、この頃「天皇」号が既に使用されている事が分っている。) 又、734年には井真成の墓誌として中国大陸でも使用されている。

公式の英語表記は、Japan(ジャパン)略記としてはJPNが用いられる。

JAP(ジャップ)は、アメリカ英語では侮蔑的な意味があるので[6]、使用には注意が必要である。

(但しこの他の言語ではこの限りではない) 又、最近の英語表記ではNippon(ニッポン)が用いられる事が多い。

具体的にはUPU等によるローマ字表記(1965年以降)、日本郵政公社の切手や日本銀行券などでNippon表記を用いている。

尚、Nipponの先頭三文字で略したNIP(ニップ)は、JAPよりも強い侮蔑・差別の意味合いがあるので、使用するべきではないこの場合の略称はNPNとなる。

世界の多くの言語において日本を意味する固有名詞は、ジャパン(英:Japan)、チャパーン(愛:tSeapáin)、ヤーパン(独:Japan)、ジャポン(仏:Japon)、ハポン(西:Japón)、ジャッポーネ(伊:Giappone)、ヤポニヤ(波:Japonia)、ヤポーニヤ(露:Япония)、イープン(泰:ญี่ปุ่น)、等、ある時期にある地域の中国語で「日本国」を発音した物(ジーパングォ)を写し取ったジパング (Xipangu) 或いはジャパング (Japangu) を語源とするのが定説である。

中国や朝鮮等の漢字文化の影響の強い地域においては、リーベン(中:Rìbĕn; 日本)、イルボン(朝:일본; 日本)、ニャッバーン(越:Nhật Bản; 日本)[7]等、その儘「日本」を自国の発音で読むというやり方をしている。

尚、「日出ずる処」を各国語に訳した名詞句も「日本国」を示す物として使用されている。 例:(英語)"(the) land of (the) rising Sun"、(フランス語)"le pays du soleil levant"、(スペイン語)"El pais del sol naciente"。 3).首都:詳細は日本の首都を参照 首都は東京[8]。

世界最大の都市圏でもある。 東京都を中心に神奈川県、埼玉県、千葉県などを含む都市圏人口は約3300万人。 東京都特別区の人口は約850万人である。

東京には、皇居の他、国家の最高機関国会、内閣、最高裁判所があり、政治・経済の中心地である。 4).歴史:詳細は日本の歴史を参照。

又アイヌと琉球地域に関して日本の領土になったのが明治以後である為それ以前の歴史には違いがあるので、各々の項を参照の事。

4-1). 建国年と皇紀 『日本書紀』には、辛酉年春正月庚辰朔(1月1日)にカムヤマトイワレヒコ(和風諡号「神日本磐余彦火火出見天皇」の仮名の音。

漢字の諡号は神武天皇)が即位したとあり、之を日本建国と位置づけているが、現代では歴史的事実を反映した物ではないとの説が有力である。

しかし、未だ史学者の間でも賛否両論があり、今日においても結論は出ていない[9]。

明治5年11月15日 (旧暦)(1872年12月15日)に、西暦紀元前660年が神武天皇即位紀元の皇紀元年とされ、明治6年(1873年)1月1日から使用された。

現代の日本では紀年法としてはグレゴリオ暦(西暦)若しくは元号が使われる事が多く、皇紀は殆んど使用されていないが、一部の現行法上においては現在も効力を有しており、法律文書等には記載されている。

(明治31年勅令第90号・閏年ニ関スル件) 尚、東北地方では、神武天皇に殺された長髄彦の兄安日彦が津軽に亡命した事をもって日本の建国としている。

(中尊寺文書、平泉雑記など) 4-2). 国号の成立から現在まで 「日本」という国号が成立したのは701年前後と推定される。

『隋書』、『旧唐書』、『新唐書』等に記された遣隋使の報告には「倭国と日本国は別の国であり、併合して日本国となった[10]」とあるが、これは一般には天武天皇が弘文天皇の近江朝廷を滅亡させた壬申の乱を表していると解釈されている。

平安時代の貴族の会話[要出典]の中で、日本国が中国に対して「日の本」即ち東方にある事をもって日本としたと説明されており、畿内においては東方の飛鳥地方を日本(ひのもと)と呼び、更には朝廷から東方にある関東地方や東北地方を長らく「日本」と呼んでいた事からも、この説が妥当であるとする見解がある。

但し、景行期に東海地方以東の蝦夷の国を「日高見国」と呼んでいた事から反論も根強く、日本国号の起源について未だに定説は見られない。

朝廷は8世紀から拡大策を強め、東北の蝦夷や九州の隼人等を服従させる事により、徐々に拡大を続けた。

之以後の主な対外戦争には、白村江の戦い、刀伊の入寇、元の蒙古襲来、応永の外寇、文禄・慶長の役等がある。

この間に「日本」と呼ばれる地理的領域は北上し、日本は東北沿岸から津軽、更には北海道東部のアイヌ部族の呼称として移動していった。

又モンゴル帝国において、ようやく大和朝廷の対外的呼称が「日本」に固定される様になり、権力者層に次第に日本意識・日本人意識が貫かれる様になった。

18世紀になると、シャクシャインの乱やロシア帝国との接触で北方への関心が強まり、アイヌ及びロシアへの他者意識として日本観・日本人観が江戸の庶民に定着していった。

之に応じて日本の指す領域は南下し、アイヌ居住地である蝦夷ガ島(北海道)以南が日本と意識される様になった。

19世紀になるとアメリカ合衆国始めヨーロッパ各国への他者意識として日本観・日本人観がいよいよ定着し、現代の日本観・日本人観にほぼ一致する様になった。

19世紀半ば以降、欧米列強の国家形態に触発される形で、天皇を中心とした近代国家を創出しようという試みが起こり、朝廷、幕府、藩によって分割統治されていた時代が終焉、近代的な意味での「日本国」が成立した。

明治維新と呼ばれる近代化政策が実行され、1871年の廃藩置県と翌1872年の琉球処分を通じて、ほぼ現在の領土が確定した。更に大日本帝国憲法を日本人自身の手で書き上げ、1889年に施行され、翌1890年に二院制からなる議会政治を作り上げた。 その後日清戦争と日露戦争に勝利した。

20世紀前半には台湾や朝鮮半島を併合した。

第一次世界大戦では連合国側として参戦、南洋諸島の委任統治を行った。

大戦後の自由な空気の中で、様々な政治的改革も試みられ、普通選挙の実施、政党内閣の慣例化など大正デモクラシーと呼ばれる政治運動が起こった。

1930年代になると社会の動揺から、軍部の発言力が増大し、満州事変を通じて事実上の傀儡政権として満州国(中国東北部)が建国されると、大陸との摩擦が深まり、ついには日中戦争へと発展した。

日本軍は東南アジアのほぼ全域にまで進出し、外交においては既に欧州において始まっていた第二次世界大戦の枢軸国側と協調した。

結果米国を中心とする連合国と決定的に対立、太平洋戦争(閣議決定では、支那事変(日中戦争)を含め対米英戦争を大東亜戦争と呼称すると決定した)へと発展した。

1945年に連合国のポツダム宣言を受諾。 無条件降伏を受け入れ第二次世界大戦は日本を始めとする枢軸国の敗北で終結した。

戦場となった地域の多くでは多数の民間人が犠牲となり、日本の国土も首都東京を始め空襲により焦土と化した。

又、この際、広島と長崎に原子爆弾が使用されている。

敗れた日本は、それまで拡大した領土の大半を失い、アメリカ合衆国を中心とする連合国軍の占領下に置かれた。

文字通り各国の総力戦となりこの戦争の遂行過程で様々な戦争犯罪があったとされ、現在も世界中で様々な議論を呼んでいる (日本が加害者とされる者は「日本の戦争犯罪」、被害を受けた者は「戦争犯罪」等の項を参照) 第二次世界大戦後の日本は、軍国主義の否定によって再出発した。 

その拠り所が日本国憲法である。 日本国憲法は1946年11月3日に大日本帝国憲法を改正する形で連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の元に公布され、1947年5月3日施行された。

日本国憲法では、天皇を国の統合の象徴とする事や主権が国民にある立憲民主制国家として再生させる事及び、紛争の解決手段としての戦力の保持及び交戦権を放棄する事等が示され、国号も日本国と改めた。

・1950年に隣国朝鮮半島で、朝鮮戦争が勃発した。 GHQの指示により、警察予備隊(後の自衛隊)が設立され、事実上の再軍備の道を辿った。

・1951年にサンフランシスコ平和条約を締結し、日本と連合国は講和した。

・1952年4月28日、日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)の発効により占領は終了し、独立を回復した独立回復後の日本はその基本理念として一切の軍国主義を否定し、アメリカ合衆国とは同盟関係を結んだ。

・1955年に、保守政党である日本民主党と自由党が合同し55年体制のもとで長期安定政権を確立した。

その後、日本は高度経済成長を迎え、経済は驚異的な勢いで発展した。 東京オリンピックや日本万国博覧会の開催は、戦後の日本が国際社会に復帰する事の象徴にもなった。

・1968年、1972年には日本の領土とされながらも、施政権を喪失していた小笠原諸島と沖縄の施政権が米国から返還された。

現在では、発展途上国のための支援ODAなどを行い、世界の平和や相互理解に一定の役割を果たすまでになった。

近年は先進国として国際紛争解決の為に国連平和維持軍の一員として、日本が軍隊派遣をするかどうかが議論の対象となっている。

しかし現在の日本国憲法下では軍事力の放棄が記されている事等の為、自衛隊の派遣については日本国内で賛否が分かれている。 現在は憲法改正の動き等も見られ、活発な議論が行われている ・

1999年8月13日に国旗及び国歌に関する法律(通称:国旗・国歌法)で、国旗は日章旗(通称:日の丸)、国歌は君が代と定められた。 4-3).

今後の課題 数々の異例の大躍進に支えられて現在の地位を確立した日本も、問題を抱えていない訳ではない。 急速に進む高齢化と出生率の低下は、可也りの部分を国民の技術に依存してきた国力を削ぎかねないとの意見がある。

又、2007年に各自治体の財源を襲うと言われている「団塊の世代」の大量退職に伴う退職金の支給問題や、若年層を中心に広がる所得格差、又依然として低いレベルに留まっている国民全体のコンピューターのソフトウェア技術に対する分不相応の理解度は、既に各所で問題を引き起こしつつあるとされており、インドや中国の後塵を拝しつつあるとも言われる。

5).日本民族、日本の民族問題、及び 日本の外国人も参照 日本人の起源は、いわゆる縄文人、弥生人を基調とし、古代には中華世界から「倭人」と呼ばれた人々が中心となっているとされているが、日本人の起源そのものについては諸説あり、定かではない。

自称としては「和人」、或いは近代的民族意識の下では「大和民族」とも言う。

古代からの天皇を頂点とする近畿地方の朝廷と、中世以降における天皇を支配の正統原理として後ろ盾とする武家政権との、二重構造で成立していた中央政権の支配下に入った地域の住民が、固有の日本人とされる。

中世以降、沖縄(琉球)に成立し南西諸島の大半を支配下に置いた琉球王国、及び北海道・千島列島・樺太南部(蝦夷地)に居住したアイヌ(ウタリ)については、其々「南の日本」、「北の日本」とも称される。

之等の地域に住む人々は、弥生時代以降、「中の日本(主要な3島及びその周辺島嶼を指す)」とはやや異なる歴史を歩んだ経緯があり、固有の民族性を発達させた。

ただ、元来、鎖国基調にあった、中の日本に対し、琉球は南方で、アイヌは北方で其々大陸勢力との接触・交流を担っていたという構造が背景にあり、中の日本は限られた窓口を通じての大陸勢力との直接接触を除くと、琉球、アイヌを通じて間接的に大陸勢力と接触していた側面が色濃い。

尚アイヌと共に樺太にいたウィルタ、ニヴフは、樺太南部へのソビエト侵攻と占領後、北海道や本州へ移住した。 今でもロシアに対して樺太南部の返還を求める声も僅かながらある。

又、小笠原諸島には19世紀初頭ハワイから植民団が入植し、ヨーロッパ系アメリカ人やハワイ人による小規模なコロニーを形成したが、明治維新後日本領有が確定し、ヨーロッパ系、ハワイ系住民は順次日本国籍を取得し、日本人社会に溶け込んでいった。

アイヌ人は現在でも民族的・文化的独自性を保持し、二風谷ダム訴訟判決でも日本における先住性が確認された。 又アイヌ文化振興法が制定され、アイヌ語やアイヌ文化の保持・発展に国も積極的な支援を行う事となり、アイヌ語話者も少しずつ増えてきている。

又、明治維新以降、20世紀に入り、伝統的に大陸勢力との繋がりが深い朝鮮半島や台湾を併合し、更に軍事的、政治的、経済的に激しく中国に食い込んでいった為、之等の地域の出身者も、日本国籍取得者(帰化者)、外国人登録者(永住者)の双方の形態で、比較的多数の住民として抱えていく事になった。

現在総人口の約1.5%が外国人登録者である。 韓国籍、朝鮮籍、中国籍、台湾籍、ブラジル国籍、フィリピン国籍等が多く、韓国・朝鮮籍を除けば増加傾向にある。

韓国・朝鮮籍、及び中国籍については、戦前の旧日本領出身者及びその子孫が多く、最近では中国残留孤児や家族の永住帰国も多い。

又最近の外国籍増加の背景には、1990年の入管法改正でブラジル等に移民した日本人移民及び子孫の、日本での就労が自由化された事が大きい。

6). 日本の範囲 ・最東端:東京都南鳥島(北緯24度16分59秒・東経153度59分11秒) ロシア占領下で帰属が微妙な千島列島占守島小泊崎(北緯50度・東経155度)を最東端とする意見もある。

・最西端:沖縄県与那国島西崎(北緯24度26分58秒・東経122度56分01秒) 正式な「日本の最○端」のなかで唯一、公共交通機関で誰でも自由に訪れることができる場所である。

最南端:東京都沖ノ鳥島(北緯20度25分31秒・東経136度04分11秒) 人の住む最南端としては、沖縄県波照間島(北緯24度2分25秒・東経123度47分16秒) 最北端:北海道択捉島カモイワッカ岬(北緯45度33分28秒・東経148度45分14秒) 北方領土を除く最北端は、北海道稚内市弁天島(宗谷岬;北緯45度31分13秒・東経141度56分27秒) ロシア占領下で帰属が微妙な千島列島阿頼度島最北埼(北緯50度55分30秒・東経155度32分)を最北端とする意見もある。
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