ペトラウス新司令官は米公聴会承認後、ブラッセル経由でカブール入り
NATOは新司令官に不満。交戦規定は変更せず、戦略は継続というが
************************************
マクリスタル現地司令官を更迭したオバマ大統領が、新アフガニスタン米軍司令官(NATO司令官を兼務)にペトロウス中央軍司令官を任命した事は述べた。
戦争中に司令官を更迭したのはハリー・トルーマン大統領のダクラス・マッカーサン罷免以来である。
ペトロウスは米議会公聴会で承認され(30日)、直ちにブラッセルヘ飛んでNATO本部でフォグ・ラスムセンNATO軍司令官と会談した
7月1日、NATO本部では「犠牲者が急増しているとはいえ、基本戦略を変更しないし、タリバン以外の“市民”を保護し、アフガニスタンの正規軍並びに警察の訓練を重視する事に替わりはない」と述べた。
しかし軍と警察の訓練が遅れている上、教官不足。
まして新任の教官幹部は「之迄の訓練度を過大評価している。
軍も警察もレベルが低すぎる」と酷評された。
(フォックスニュース、7月1日付け)。
ラスムセンNATO司令官は前任者のマクリスタルの前任者や大使批判を支持した人物である。
あまつさえNATOは米軍のトップ人事を事前に知らされておらずむくれた。
アフガニスタンで欧米の共同作戦も心理上の齟齬が目立つようだ。
「苦戦中とはいえ、犠牲を減らし治安を回復する事に最大の努力をする為に」とペトロウス中央軍司令官はNATO幹部に付け加えた。
「交戦規定に若干の変更があるかもしれない」。
つまり大筋では前任者のマクリスタル路線を継続するとして、NATOを説得した。
「制圧」した筈のヘルマンド県マルジャの治安は完全回復とは言えず、次のカンダハル総攻撃は遅れに遅れている。
くわえて米軍の三万増派は日程が遅れており、米軍の目標=122000名に三分の一が欠ける。 西側の犠牲は従前の統計の倍加、六月だけでも死者102名を記録しワースト名数字を塗り替えた。
欧米の腹の探り合いと共同への決意が未消化のまま、ペトロウス新司令官は2日、カブールに入った。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ●◎ブックレビュー◎●書評◎●
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
西村幸祐vs石平『日本よ!米中を捨てる覚悟はあるか』(徳間書店)@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
保守陣営の中では中国論花盛りな時期に、いささか趣の変わった中国論がでてきた。
本書は、このまま民主党の横暴が続けば日本は間違いなく「中国の『倭国自治区になる』という激しくも辛辣な日本現代政治批判となっている。
趣旨はその通りにしても、やや違和感を抱いたのは、「倭国」ではなく『中華人民共和国「倭族」自治区』と比喩した方がわかりやすいのではないか、と云う事だった。
チベット、ウィグル、モンゴルはそれぞれが「自治区」である様に。 その昔、日本は米国五十一番目の州になればいい、として「アメリッポン」という標語が流行り、国語もやめて英語で言い、それはジャグリッシュだろう、とか。
結構、まじめに議論している手合いがいて驚いた事がある。
敗戦直後にも桑原武夫とか志賀直哉は『日本語はローカル語だからフランス語にせよ』とする奇矯なる妄説を吐いていたっけ。
通貨もドルで共通とすれば問題はないじゃないか、と真顔でいう人がいた。
評者(宮崎)は「我々にとって最も重大な要素は国家の矜恃、民族の個性であり、通貨は主権行為であり、そういう説は絶対に受け入れられない」と反論すると、相手はさっと引っ込めたが。
つまり基礎的な主体性論議が、之等の妄説を弄する人達には欠落しているのである。
さて本書は触れていないが、もし「中国『倭族』自治区」に日本がなるとすれば、日本人の教わる「国語」は勿論中国語、マスコミは北京が内容を指令し、教育現場では中華思想の歴史が教えられ、通貨も人民元となる。
国防は中華人民共和国の軍隊が駐屯する。
反中国の言辞は禁止され、さしずめ保守言論人はことごとく労働改造所送りとなり、歴史書は焼き捨てられるだろう。
天皇は当然ながら廃位されられるだろう。
その上、本書で触れられている様に「日本女性は強制的に中国人男性と結婚を強いられ」、気がつけば合法的に民族浄化。
本当の日本人は消滅する事になる。
この未曾有の危機をいかに乗り切るか。
さしあたっては現政権を過半数割れに追い込むしか道はないだろう。
西村幸祐は焦燥を表しつつ、こう言う。
「このままでは、独自の軍事力でプレゼンスを築けない日本は、米中両帝国に都合のいいように富を簒奪されながら、さながら香港の様に、『倭人自治区』としてシナの西太平洋支配の要諦としてのみ存在できる空っぽな孤島になっていくだろう。
日本が戦後体制から脱却し、更にポストモダン状況を主体的に迎え入れる事で、『歴史の終わり』を冷戦後の米国で宣言したフランシス・フクヤマに対し、『歴史の始まり』を日本が宣言する事が可能になる」。
さはさりながら、石平は基本的にそれが可能なのか、次なる言葉を用いる。
「私が不思議に思っているのは、中国で日本の歴史書を幕末、明治から色々読んできましたが、日本に来て現実の生身の日本人とつきあうと、どう考えても、今の日本人と歴史書に書かれた日本人とが繋がらない。 幕末、明治或いは戦前の日本人と、之が同じ人種とは全然思えない」
本書を読んで憂鬱さが増すだけか、立ち上がれ日本とさけびつつ行動に移るか。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
★西村真悟のコラム
@@@@@@@@
課題を封印したずるい選挙 また菅氏が消費税の低所得者還元つまり消費税払い戻しに関して錯乱した手振りで街頭演説して、野党がその矛盾を突っ込み、小沢氏が、田舎で、すねたように、「公約は変えるな」と執行部批判をしている。 そこで言いたい。
こいつ等の手に乗るなと。消費税を引っかけて、議論をそこに集めるのは、肝心な課題を封印する菅の操作だ。
小沢氏の「公約を変えるな」と執行部批判をしているその「公約」とは、聞いている者によって意味が違う。
韓国政府、民団、朝鮮総連は、外国人参政権付与を実行せよと小沢氏が言ってくれていると受け取っている。
小沢氏も、そのつもりで言っている。
その発言が「献金」につながり、小沢の力温存につながるからだ。
之等の思惑を隠したまま、何が進行しているのか。
7月1日、つまり昨日からの中国人入国ビザの大幅緩和。不妊の副作用が懸念される子宮頸ガン予防ワクチンの接種促進。宮崎の口蹄疫病の封印。そして、小沢幹事長、菅副総理の狙い通りの、「手当をばらまきながらの選挙」である。
6月29日~7月1日迄、鹿児島から宮崎を通り熊本に移動して、「たちあがれ日本」の広報と、亡国情況の報告をさせていただいた。
中国人入国ビザの大幅緩和と子宮頸ガン予防ワクチンに対する重大な懸念に関しては、封印されていた様に全くはじめて聞いたという表情をされる。
しかし之こそ、小さな事に見えるが、内と外から我が国を崩壊させる大きな要因である。
入国ビザの緩和は、かつての満州や現在のチベット、ウイグルと同様に、日本社会における中国人人口の急激な増加と従来の秩序崩壊と治安の悪化を招く。
子宮頸ガン予防ワクチンへの懸念が事実であれば、不妊による日本民族絶滅に至る。
鹿児島の霧島から宮崎県に入り、都城、小林から人吉に抜ける間に、度々車の消毒があった。
大雨の中で、二十四時間人が立って消毒にあたっておられる。
一体、全宮崎県内で、何人の方が二十四時間の消毒作業にあたられているのか見当も付かない。 真に、ご苦労な事だった。
その度に、「ご苦労様」と声をかけて通った 宮崎県は勿論、周辺の鹿児島、熊本の方々のご苦労は計り知れない。
この様な状態の中で、平気で選挙に入った現内閣の「国民の苦労」を封印した傲慢ぶりに、怒りがこみ上げる。
之は、人災だ。 具体的に言えば、民主災であり鳩・菅災だ。
それと同時にこの事態を観て、つくづく思う。宮崎県民に言いたい。
いざという時に必要な知事とは、一週間に数本の半分お笑いテレビに熱心に出演しているタレントではなかったんだと。
さて浅間山荘事件や三菱ビル爆破などの事件に象徴される1970年代の学生運動から市民運動に転じ、国旗・国歌法案に反対し、横田めぐみさんを拉致した北朝鮮工作員シン・ガンスの助命という朝鮮総連の運動に賛同し、韓国大統領に対する彼の嘆願助命書に署名をした者が、総理大臣になっている。
そして外国人参政権付与を推進し、夫婦別姓法案を推進し、学生時代の目標である日本解体に進もうとしている。
その為に低級な候補者を立てて選挙をしている。
彼は隠しているが、これが最大の国家的課題なのだ。 (了)
(にしむらしんご氏は前衆議院議員)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
★松本徹先生『三島由紀夫を読み解く』がNHKテキストにラジオ第二放送で7月~9月放送のテキストです
************************************
NHKカルチャーラジオ『文学の世界』は、7月~9月が松本徹(文藝評論家、三島文学館館長、憂国忌発起人)が語りおろす「三島由紀夫を読み解く」です。
放送日は7月~9月木曜日 午後八時半~九時
再放送は金曜日午前10:15-10:45
尚、写真十数葉を配した、松本先生執筆のテキストはNHKから出版されており、書店で買い求める事ができます。
NHKカルチャーラジオ 松本徹 『三島由紀夫を読み解く』(857円)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
2007年8月4日土曜日
ポスト安部!!
麻生 太郎(1940年9月20日 -)は
、日本の政治家、実業家。自由民主党所属の衆議院議員。
麻生派(為公会)会長。元麻生セメント代表取締役社長。
家系は宇都宮氏の傍流麻生氏。 実家は麻生財閥を形成した一族である。
小泉再改造内閣から第3次小泉内閣まで総務大臣、第3次小泉改造内閣および安倍内閣で外務大臣等を歴任。
士志の会の一員。 日韓議員連盟副会長。
日韓トンネル研究会九州支部顧問であり、党内では夢実現21世紀会議議長として日韓トンネルを推進
2007年現在の首相である安倍晋三は遠縁の親戚(麻生の祖父吉田茂の娘婿のいとこが岸信介となる為)。
1). 年譜 1940年9月 - 福岡県飯塚市に麻生太賀吉と和子の長男として生まれる。
小学3年生の頃上京し学習院初等科に通う。
1959年3月 - 学習院高等科を卒業。
1963年3月 - 学習院大学政経学部政治学科を卒業。
1963年スタンフォード大学大学院に留学。
1965年ロンドン大学政治経済学院に留学。
1966年8月 - 麻生産業株式会社に入社。
1966年11月 - 麻生産業株式会社の取締役に就任。
1973年5月 - 麻生セメント株式会社の代表取締役社長(1979年12月まで)。
1978年1月 - 社団法人日本青年会議所の会頭に就任(1978年12月まで)。
1979年10月 - 衆議院議員に初当選。
1983年11月 - 千賀子夫人と結婚、後に一男一女をもうける。
1988年12月 - 文部政務次官に就任(1989年6月まで)。
1990年3月 - 自由民主党の文教部会長に就任(1990年12月まで)。
1991年1月 - 衆議院石炭対策特別委員長に就任(1991年11月まで)。
1991年11月 - 衆議院外務委員長に就任(1993年5月まで)。
1992年12月 - 自由民主党外交部会長(1993年8月まで)。
1996年11月 - 国務大臣経済企画庁長官に就任(1997年9月まで)。
1999年1月 - 自由民主党内で長年所属した宏池会離脱~元総裁河野洋平を会長に大勇会旗揚げ(学習院で初等科~政治学科卒業まで1年先輩の亀井久興も旗揚げ参加。亀井は後に会長代行となるが、05年8月離党し国民新党を結成、初代幹事長に就任)。
1999年3月 - 自由民主党副幹事長に就任(1999年11月まで)。
2001年1月 - 国務大臣経済財政政策担当大臣に就任(2001年4月まで)。
2001年4月 - 自由民主党総裁選挙に出馬し小泉首相、橋本元首相と戦い31票で3位(立候補届出人は相沢英之)。
2001年4月 - 自由民主党の政務調査会長(2003年9月まで)。
2003年9月 - 総務大臣に就任。
2003年11月 - 総務大臣に再任。
2004年9月 - 国民スポーツ担当が追加。
2005年10月 - 外務大臣に就任。
2006年9月 - 自由民主党総裁選挙に出馬し安倍官房長官、谷垣財務大臣と戦い136票で次点(立候補届出人は松本純及び稲田朋美)。
2006年9月 - 外務大臣に再任。
2006年12月 - 麻生派(為公会)を旗揚げ、会長に就任。
2). 人物像 記者会見に臨む麻生この記事に雑多な内容を羅列した節があります。
事項を箇条書きで列挙しただけの節は、本文に組み入れるか除去する必要があります。
血液型はA型。 運動神経抜群で射撃選手としての経歴を持ち、モントリオールオリンピックに日本代表選手として出場(結果は41位)、
第2回メキシコ国際射撃大会(クレー・スキート(個人・団体))では優勝。
現在日本クレー射撃協会会長を務めている。
バスケットボール女子日本リーグ機構総裁。 日本トップリーグ連携機構副会長。
2007年3月20日、衆議院議員在職25年を迎え衆議院より院議をもって表彰された。
麻生財閥の元社長。名門一家に育ったが、「首相の家庭なんて幸せなもんじゃねえ」「両親にほったらかしにされて育った」「生まれはいいが、育ちは悪い」と本人は語っている。
将来は経営者になるべく、アメリカの大学院へ留学する。 しかし祖父の吉田茂にアメリカ英語の訛りを指摘され、半ば強制的に英国留学となる。
アメリカで2年、イギリスで1年、会社の業務で西アフリカ・シエラレオネで2年、ブラジルで1年を過ごした。 尚、シエラレオネにおいてはダイヤモンド鉱山開発を手掛けていたが、内戦・革命が勃発した事から帰国を余儀なくされている。
政治評論家三宅久之によると、JC会頭の改選において麻生の認証無くしては決まらないという。
漫画が大好きで、漫画雑誌のほとんどを読み流していると語っている。
好きな作品は『ゴルゴ13』、『こちら葛飾区亀有公園前派出所』『のだめカンタービレ』他多数。
『NEWS23』出演の際は、「『ビッグコミックオリジナル』の『風の大地』が好き」と発言している。
上記の事からオタクの一部から絶大な支持を受けており、2006年の自民党総裁選でもオタクらしき追っかけが現れた。
秋葉原でも演説を行い、その際に「この中に『キャプテン翼』を知っている人手を挙げて!」とリップサービスを加えた発言を行った。
クリスチャン(カトリック)であるが、毎年靖国神社に参拝している。
終戦の日の8月15日ではなく、例大祭に合わせて参拝している(カトリックでは8月15日は聖母の被昇天という祭日であり、この日に祝いのミサがあるという事情もある)。
又A級戦犯が合祀されている事に対しては疑義を唱えているが、分祀賛成派というわけではない。
3). 家系 麻生家は、宇都宮氏の流れを汲む麻生氏の一族とされており、江戸時代には村の庄屋を務め、1868年大庄屋となった。
明治の始め曾祖父・麻生太吉が目尾御用炭山を採掘し石炭産業に着手、九州三大石炭財閥の一つに伸し上がり鉄道、電力、金融等幅広く事業を展開して大富豪となった。
戦後麻生炭鉱は吉田茂の資金源となった。
元内閣総理大臣吉田茂は祖父、子爵加納久朗は祖母・夏子の兄。
牧野伸顕、竹内綱は曽祖父、大久保利通、三島通庸は高祖父にあたる。
妻は元・内閣総理大臣鈴木善幸の三女。 夫人との間に1男1女あり。
弟・泰の妻は元・日本医師会会長武見太郎の娘。 妹・信子は寬仁親王妃。
従兄弟にキャプテン・フューチャーの翻訳家として知られる野田昌宏がいる。
なお、現職の外務大臣に関して述べるならば、牧野・吉田はいずれも外務大臣経験者であり、世襲が多い日本の政界でも極めてまれなケースである。 4).
過去の言動 4-1). 経済:自称「経済通」。
2006年の自民党総裁選の頃、「安倍くんなんかからは、経済の話を(一度も)聞いた事はない」と発言。安倍晋三は「私は之まで機会ある時には、発言してまいりましたが、麻生さんが何をどの様に考え発言しているのか・・・」と失笑、嘲笑ぎみに反駁した。
4-2). 外交関連 2006年1月9日、福岡県飯塚市で開いた集会で、シドニーで予定されていた日米豪閣僚級安全保障対話が延期された事に関連し「シャロン首相の容態が極めて悪く、会議途中でその儘お葬式になると意味がないので延期という事になった」と述べ、配慮を欠くとの批判を浴びた。
2006年7月8日に広島市内で行なった公演で、北朝鮮がミサイルを撃ち、主要国が重大な関心を持った事について、「金正日に感謝しないといけないな」と発言した。
2006年10月、中川昭一自由民主党政務調査会会長が核武装も選択肢として考えておくべきだと発言したのに対し、「隣の国が持つとなった時に、一つの考え方として色々な議論をしておく事は大事だ」「日本は言論統制された国ではない。
言論の自由を封殺するという事に与しないという以上に明確な答えはない」と発言し、核武装を容認する物として批判される(本人は非核三原則を堅持すると明言はしている)。
この発言が北朝鮮の核保有を正当化しかねないと問題になり12月に民主、社民、共産など野党4党から外相としての不信任決議案を提出された。
2007年1月26日、第166回通常国会衆議院本会議の外交に関する演説において「近隣諸国に目を転じますと、まず中国との間には、1日1万人以上、 年間400万人を超す相互の往来があり、経済関係がとみに緊密な現状を物語っています。
本年も政治と経済の両輪を力強く回します。
共通の戦略的利益に立脚した、互恵関係を築いてまいります。」
「日本と韓国は、互いにとって最も近く、基本的価値を共にする大切な民主主義国同士であります。
その様な間柄にふさわしい、未来志向の関係を打ち立てます。」
「ODAは、我が国外交の重要な手段であります。
国際社会の一員としての責務を果たし、かつ、自らの繁栄を確保していく為に、ODAを一層戦略的に実施します。
「自由と繁栄の弧」形成の為にも、ODAを活用していきます。
その上で、ODA事業量の100億ドルの積み増し、又対アフリカODAの倍増等、対外公約を達成すべく努めてまいります。」と述べた。
2007年2月3日、京都市内の講演で「ドンパチが終わった後が大変だというのがイラクで分かった。
(アメリカがイラクを)占領した後のオペレーションは非常に幼稚」とアメリカのイラク政策を批判した。
4-3). 歴史認識関連 2003年5月31日、東京大学学園祭において「創氏改名は朝鮮人が望んだ、日本はハングル普及に貢献した」と述べた。
当該項目も参照。
総務大臣在任中の2005年10月15日、この日に開館した九州国立博物館の開館記念式典での来賓祝辞の中で「一文化、一文明、一民族、一言語の国は日本のほかにはない」と発言。
アイヌ民族や琉球民族等には独自の文化、民族、言語がある(詳しくは概要、住民の民族性、言語、アイヌ、琉球の項を参照)との批判が巻き起こった。
又、中国や朝鮮半島との交流の中で日本文化が形成されてきた歴史を展示する同博物館の趣旨をも理解していないと、関係者の中には落胆する者もいた。」
尚、同博物館は選挙区は異なるものの彼の地元である福岡県内にある。
2006年2月4日の福岡市での講演において、日本が植民地台湾の義務教育に力を入れたと指摘した上で「台湾はもの凄く教育水準が上がって識字率等が向上したお陰で今極めて教育水準が高い国であるが故に、今の時代に追いつけている」
「我々の先輩はやっぱりちゃんとした事をやっとるなと正直その時思った」と述べた。
2007年2月19日、衆議院予算委員会において米議会に提出された従軍慰安婦問題をめぐる対日非難決議案にある「日本軍による強制的な性奴隷化」といった記述について、「客観的な事実にまったく基づいていない。 はなはだ遺憾だ」と述べた。
2007年3月21日、長崎県時津町で講演。日本独自の中東和平外交として、ヨルダン渓谷の開発を進める「平和と繁栄の回廊」構想に触れ、「米国人にできないことを日本がやっている。
日本人というのは信用がある。青い目で金髪だったら多分駄目よ」と述べた。
「われわれは幸いにして黄色い顔をしている。
そこ(中東)で搾取をしてきたとか、ドンパチ、機関銃撃ったとか一回もない」と語った。
4-4). 靖国神社問題 2006年1月28日、名古屋で行われた公明党議員の会合で、「英霊は天皇陛下のために万歳と言ったのであり、首相万歳と言ったのはゼロだ。
天皇陛下が参拝なさるのが一番だ」と述べた。 「(天皇が)公人か私人かという論議の為参拝できなくなったが、解決の答えは幾つかあるはず」と付け加えた。
外交問題に飛び火した首相の参拝について「中国が(参拝を中断しろと)言えば言う程行かざるを得ない」とし、「之はたばこを吸うなと言うと吸いたくなるのと同じだ」と述べた。
2006年5月26日に都内ホテルで開かれた国際交流会議「アジアの未来」で講演し、「23日に自分がカタールで中韓の外相と会談したので関係改善の流れが出て来た」と発言。
之に対して韓国産業資源部長官は、「アジア共同体形成に関して各国間合意は出来たが、韓中日の共同体構築努力が他地域に比べ足りない、原因は一部政治家の靖国参拝や歴史問題だ、ヨーロッパがいかにして之を克服したか考えて欲しい」と講演した(日経26日夕刊記事)。
2006年8月8日に靖国神社を非宗教法人化する私案を朝日新聞に発表した。
2006年8月21日、自民党総裁選に立候補する事を正式に表明する。
総理総裁になった時には、靖国神社を上で述べられている様に非宗教法人化、最終的には特殊法人国立追悼施設靖国社にする事を公約に掲げた。
4-5). 漫画関連 自身のサイトに『ビッグコミックオリジナル』2003年7月2日増刊号のインタビュー(麻生太郎 コミックを語る)が収録されているが、それによると週10~20冊の漫画雑誌を読み『ジパング』や横山光輝版『三国志』、『風の大地』、『ジョジョの奇妙な冒険』、『ゴルゴ13』、『こちら葛飾区亀有公園前派出所』等がお気に入りで、必ず自分の車内には最新の週刊コミック誌を置いている程であるという。
漫画『ローゼンメイデン』の読者である噂が立ち、実際にインタビューを受けた事から、ネット上等で話題となった。
その為「ローゼン閣下」「ローゼン麻生」などの愛称で呼ばれる事もある。
この事は『メカビ Vol.1』(講談社で創刊された雑誌)の「麻生太郎 直撃! ローゼンメイデン疑惑」という記事で掲載されている。
但し、「少女漫画」と呼称する等、実際に読者であるかは疑問が残る。
又、実際に目撃されたといわれる場所で読んでいたか、とあるイベントで原作者PEACH-PITのサインを受けたか(原作者ブログより、ただし麻生宛の記述は無し)も適当にお茶を濁されただけであった。
手塚治虫の生前、彼に国民栄誉賞を贈るよう当時の中曾根首相か、後藤田官房長官のいずれかに進言したが、勲章(勲三等瑞宝章叙勲を指すと思われる)に落ち着いたという。
ネットでは漫画好きと目されており、一部からは漫画文化のよき理解者として非常に人気が高い。
一方、1989年 - 1991年に掛けての「有害コミック」騒動では、「有害コミック」を規制する立場から1991年「子供向けポルノコミック等対策議員懇話会」を結成し、会長となった。
今一番好きな漫画は『風の大地』と発言している。
『名探偵コナン』を使った外務省のPR冊子作成時には「漫画を通じ外務省を身近に感じてもらえたら」と出来栄えに満足していた。
[1] 因みにこの際、『名探偵コネン(英語での正しい発音)』と読み間違えた事にされた。
又、作者の青山剛昌の名前が読めなかった(「青山ごう…何て言ったっけな」と発言)。
2007年5月30日からウィーンで開催される核拡散防止条約(NPT)運用検討会議の第1回準備委員会で、日本政府代表団は広島の被爆体験を描いた漫画『はだしのゲン』の英訳版を加盟国に配布する事になった。 之は麻生の肝いりで実現したもの。
外務省が英語版30冊を出版社から譲り受け、今後も「漫画外交」を活発に展開させる予定。
(時事通信、2007年4月29日) 2007年5月22日、海外の漫画家を対象とした「国際漫画賞」を創立する事を発表。
本人は「漫画のノーベル賞の様な物を作りたい」と述べている
4-7). 差別とされた発言 被差別部落出身の野中広務に対し差別的発言をしていたのではないかと疑惑がある。
魚住昭『野中広務 差別と権力』によると、麻生が過去に「野中のような部落出身者を日本の総理にはできないわなあ」という旨の差別的発言をしたとして、
2003年9月の麻生も同席する自民党総務会において、野中広務に批判された。
2005年2月22日、衆議院総務委員会の議論でも取り上げられたが、麻生は「その様な発言(=野中に対する差別的発言)をした事は全くありません」と答弁している。
2006年12月13日、シンポジウム「今こそ部落問題を語る」にて、講師として招聘された野中が、麻生の差別的発言について語った。
それによると、外務大臣当時の麻生が大勇会の会合で「野中の様な部落出身者を日本の総理にしていいのか」と発言し、野中は大勇会会員3名からその発言内容を確認したという 週刊現代の取材に対し、麻生太郎事務所は「衆議院総務委員会で説明しており、それ以上のコメントはない」と回答しているこの回答を受けた週刊現代の取材に対し、野中は「事実無根だなんて。
その会議(=差別的発言があったとされる大勇会の会合)におった人間が言ってますよ。
河野さん(=河野洋平)も言っているし。」と発言した。
2007年7月19日、富山県高岡市内で講演会において、国内外の米価を比較する例えとして「7万8000円と1万6000円はどちらが高いか。
アルツハイマーの人でもわかる」と発言し、アルツハイマー患者に誤解を与える表現として批判される。
[2] 之については野党からの反発は勿論、与党からも参院選に悪影響だと懸念され、塩崎恭久内閣官房長官からも「適格性を欠く」と批判を浴びた。
麻生は翌7月20日、「不適切なものがあった。
発言を撤回し、不快な念を持たれた方々と関係者の方々にお詫び申し上げたい」
[1]と謝罪した上、撤回した。
2007年7月20日、鳥取県倉吉市での演説で、「酒はきちがい水だとか何とか皆言うもんだから、勢いとかいろんな事ありますよ」と発言した事について、毎日新聞は問題表現であるとした 又、自民党の町村派幹部は参院選後の政局に響くとの見方を示し、社民党の福島瑞穂党首は「全く人権感覚がない」として罷免を求める考えをしめした[2][3]。
尚、「酒はきちがい水」というのは古くからある慣用表現である。
4-8). その他 10月20日にはホームレスに対しての発言が、差別的であるとして、各地の日雇い労働者及び野宿者支援組織等から抗議を受けた[4]。
谷垣禎一前財務相との「安倍晋三首相には向かっても何もできない。
だからオレと組め。 その代わり、オレに総理を先にやらせろ」という会話内容を、谷垣が述べたが、之は大袈裟に話を膨らませただけで、麻生は之に対して「こっちはまだ解答を貰っておらず、そういう事(会話内容)を全然関係ない所でしゃべって、マナーとしていかがなもんか」と述べた。
3年10ヶ月の国民年金保険料未払い期間があった事が、2004年9月に判明した。 菅直人が「未納三兄弟」と呼称した内の一人である。
詳細は政治家の年金未納問題を参照の事。
2007年7月19日、富山県高岡市内での講演会には高齢の支持者もいたが、麻生外相は年金記録問題について「この問題は30年後の話。
今払っている奴が心配するのは分かるが、お宅等は関係ないんだ」と発言している[5]。
一連の年金記録問題は、社会保険庁の怠慢の影響で、現在の一部受給者も受給額が不足している事が判明している為、麻生外相は年金問題を理解せずにコメントしている事になる。
5). 統一教会との関係 勝共推進議員であり、勝共連合から送り込まれた統一教会員秘書を一人受け入れ、1988年の勝共推進議員教育報告書や
1988年の統一協会総支部活動報告所にも名前を連ね、統一協会支部結成貢献ランクはBと評価されていた、などと一部メディアにおいて報道された。
[6] 近年は統一協会系のNPOである日韓トンネル研究会九州支部顧問に就任したとされ、党内では夢実現21世紀会議議長として日韓トンネル研究会の役員からヒアリングを行う等して、日韓トンネルを推進している。
6).関連項目:麻生氏、宇都宮氏、筑豊御三家、麻垣康三 士志の会、古賀誠、平沼赳夫、高村正彦、青年会議所、 為公会、福岡県出身の有名人一覧
6-1). 参考文献 広瀬隆 『私物国家 日本の黒幕の系図』 光文社 2000年
191、333貢 佐藤朝泰 『豪閥 地方豪族のネットワーク』 立風書房 2001年
451、500貢 神一行 『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』 角川書店 2002年
31、42-44貢 魚住昭 『野中広務 差別と権力』 講談社 2004年06月29日 ISBN 4062123444 『メカビ
Vol.01』講談社 2006年06月02日 ISBN 4061795910 「野中広務元官房長官『山崎拓衆院議員は
『週刊文春』を部落問題で恫喝した』」『週刊現代』49巻1号、講談社、2007年1月13日、46-47頁。
7). 外部リンク:麻生氏系譜 麻生グループ---麻生とその沿革--- 麻生鉱業の小鳥塚、麻生太郎事務所、麻生の歴史
8). 脚注 ^ 「麻生外相が陳謝――アルツハイマー発言」『朝日新聞社』朝日新聞東京本社、2007年7月21日、34面。 ^ 毎日新聞 2007年7月20日
^ 麻生氏失言:政権タガ外れ露呈「安倍後継」レースに影響?(MSN毎日インタラクティブ) ^
http://www.tokyohomeless.com/body2-75.html
^ 麻生外相:「アルツハイマーでも分かる」 講演で発言 『毎日新聞』、2007年7月19日
^ 『週刊現代』99.2.27号 先代:田中秀征 経済企画庁長官 1996 - 1997 次代:尾身幸次
先代:額賀福志郎 経済財政政策担当大臣
2001 次代:竹中平蔵 先代:片山虎之助 総務大臣 第3代:
2003 第4代:
2003 - 2005 第5代:
2005 次代:竹中平蔵 先代:町村信孝 外務大臣 第136・137代:
2005 ‐ 次代: 現職 先代:亀井静香 自由民主党政務調査会長 2001 - 2003 次代:額賀福志郎
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BA%BB%E7%94%9F%E5%A4%AA%E9%83%8E"
より作成 カテゴリ: 雑多な内容を箇条書きした節のある記事 福岡県の政治家 福岡県出身の人物 飯塚市 日本の実業家 日本の国会議員 日本の閣僚経験者 日本のオリンピック選手 表現規制問題に関連する人物 馬主 1940年生
●麻生批判の声 http://mixi.jp/view_diary.pl?id=517934447&owner_id=460954
、日本の政治家、実業家。自由民主党所属の衆議院議員。
麻生派(為公会)会長。元麻生セメント代表取締役社長。
家系は宇都宮氏の傍流麻生氏。 実家は麻生財閥を形成した一族である。
小泉再改造内閣から第3次小泉内閣まで総務大臣、第3次小泉改造内閣および安倍内閣で外務大臣等を歴任。
士志の会の一員。 日韓議員連盟副会長。
日韓トンネル研究会九州支部顧問であり、党内では夢実現21世紀会議議長として日韓トンネルを推進
2007年現在の首相である安倍晋三は遠縁の親戚(麻生の祖父吉田茂の娘婿のいとこが岸信介となる為)。
1). 年譜 1940年9月 - 福岡県飯塚市に麻生太賀吉と和子の長男として生まれる。
小学3年生の頃上京し学習院初等科に通う。
1959年3月 - 学習院高等科を卒業。
1963年3月 - 学習院大学政経学部政治学科を卒業。
1963年スタンフォード大学大学院に留学。
1965年ロンドン大学政治経済学院に留学。
1966年8月 - 麻生産業株式会社に入社。
1966年11月 - 麻生産業株式会社の取締役に就任。
1973年5月 - 麻生セメント株式会社の代表取締役社長(1979年12月まで)。
1978年1月 - 社団法人日本青年会議所の会頭に就任(1978年12月まで)。
1979年10月 - 衆議院議員に初当選。
1983年11月 - 千賀子夫人と結婚、後に一男一女をもうける。
1988年12月 - 文部政務次官に就任(1989年6月まで)。
1990年3月 - 自由民主党の文教部会長に就任(1990年12月まで)。
1991年1月 - 衆議院石炭対策特別委員長に就任(1991年11月まで)。
1991年11月 - 衆議院外務委員長に就任(1993年5月まで)。
1992年12月 - 自由民主党外交部会長(1993年8月まで)。
1996年11月 - 国務大臣経済企画庁長官に就任(1997年9月まで)。
1999年1月 - 自由民主党内で長年所属した宏池会離脱~元総裁河野洋平を会長に大勇会旗揚げ(学習院で初等科~政治学科卒業まで1年先輩の亀井久興も旗揚げ参加。亀井は後に会長代行となるが、05年8月離党し国民新党を結成、初代幹事長に就任)。
1999年3月 - 自由民主党副幹事長に就任(1999年11月まで)。
2001年1月 - 国務大臣経済財政政策担当大臣に就任(2001年4月まで)。
2001年4月 - 自由民主党総裁選挙に出馬し小泉首相、橋本元首相と戦い31票で3位(立候補届出人は相沢英之)。
2001年4月 - 自由民主党の政務調査会長(2003年9月まで)。
2003年9月 - 総務大臣に就任。
2003年11月 - 総務大臣に再任。
2004年9月 - 国民スポーツ担当が追加。
2005年10月 - 外務大臣に就任。
2006年9月 - 自由民主党総裁選挙に出馬し安倍官房長官、谷垣財務大臣と戦い136票で次点(立候補届出人は松本純及び稲田朋美)。
2006年9月 - 外務大臣に再任。
2006年12月 - 麻生派(為公会)を旗揚げ、会長に就任。
2). 人物像 記者会見に臨む麻生この記事に雑多な内容を羅列した節があります。
事項を箇条書きで列挙しただけの節は、本文に組み入れるか除去する必要があります。
血液型はA型。 運動神経抜群で射撃選手としての経歴を持ち、モントリオールオリンピックに日本代表選手として出場(結果は41位)、
第2回メキシコ国際射撃大会(クレー・スキート(個人・団体))では優勝。
現在日本クレー射撃協会会長を務めている。
バスケットボール女子日本リーグ機構総裁。 日本トップリーグ連携機構副会長。
2007年3月20日、衆議院議員在職25年を迎え衆議院より院議をもって表彰された。
麻生財閥の元社長。名門一家に育ったが、「首相の家庭なんて幸せなもんじゃねえ」「両親にほったらかしにされて育った」「生まれはいいが、育ちは悪い」と本人は語っている。
将来は経営者になるべく、アメリカの大学院へ留学する。 しかし祖父の吉田茂にアメリカ英語の訛りを指摘され、半ば強制的に英国留学となる。
アメリカで2年、イギリスで1年、会社の業務で西アフリカ・シエラレオネで2年、ブラジルで1年を過ごした。 尚、シエラレオネにおいてはダイヤモンド鉱山開発を手掛けていたが、内戦・革命が勃発した事から帰国を余儀なくされている。
政治評論家三宅久之によると、JC会頭の改選において麻生の認証無くしては決まらないという。
漫画が大好きで、漫画雑誌のほとんどを読み流していると語っている。
好きな作品は『ゴルゴ13』、『こちら葛飾区亀有公園前派出所』『のだめカンタービレ』他多数。
『NEWS23』出演の際は、「『ビッグコミックオリジナル』の『風の大地』が好き」と発言している。
上記の事からオタクの一部から絶大な支持を受けており、2006年の自民党総裁選でもオタクらしき追っかけが現れた。
秋葉原でも演説を行い、その際に「この中に『キャプテン翼』を知っている人手を挙げて!」とリップサービスを加えた発言を行った。
クリスチャン(カトリック)であるが、毎年靖国神社に参拝している。
終戦の日の8月15日ではなく、例大祭に合わせて参拝している(カトリックでは8月15日は聖母の被昇天という祭日であり、この日に祝いのミサがあるという事情もある)。
又A級戦犯が合祀されている事に対しては疑義を唱えているが、分祀賛成派というわけではない。
3). 家系 麻生家は、宇都宮氏の流れを汲む麻生氏の一族とされており、江戸時代には村の庄屋を務め、1868年大庄屋となった。
明治の始め曾祖父・麻生太吉が目尾御用炭山を採掘し石炭産業に着手、九州三大石炭財閥の一つに伸し上がり鉄道、電力、金融等幅広く事業を展開して大富豪となった。
戦後麻生炭鉱は吉田茂の資金源となった。
元内閣総理大臣吉田茂は祖父、子爵加納久朗は祖母・夏子の兄。
牧野伸顕、竹内綱は曽祖父、大久保利通、三島通庸は高祖父にあたる。
妻は元・内閣総理大臣鈴木善幸の三女。 夫人との間に1男1女あり。
弟・泰の妻は元・日本医師会会長武見太郎の娘。 妹・信子は寬仁親王妃。
従兄弟にキャプテン・フューチャーの翻訳家として知られる野田昌宏がいる。
なお、現職の外務大臣に関して述べるならば、牧野・吉田はいずれも外務大臣経験者であり、世襲が多い日本の政界でも極めてまれなケースである。 4).
過去の言動 4-1). 経済:自称「経済通」。
2006年の自民党総裁選の頃、「安倍くんなんかからは、経済の話を(一度も)聞いた事はない」と発言。安倍晋三は「私は之まで機会ある時には、発言してまいりましたが、麻生さんが何をどの様に考え発言しているのか・・・」と失笑、嘲笑ぎみに反駁した。
4-2). 外交関連 2006年1月9日、福岡県飯塚市で開いた集会で、シドニーで予定されていた日米豪閣僚級安全保障対話が延期された事に関連し「シャロン首相の容態が極めて悪く、会議途中でその儘お葬式になると意味がないので延期という事になった」と述べ、配慮を欠くとの批判を浴びた。
2006年7月8日に広島市内で行なった公演で、北朝鮮がミサイルを撃ち、主要国が重大な関心を持った事について、「金正日に感謝しないといけないな」と発言した。
2006年10月、中川昭一自由民主党政務調査会会長が核武装も選択肢として考えておくべきだと発言したのに対し、「隣の国が持つとなった時に、一つの考え方として色々な議論をしておく事は大事だ」「日本は言論統制された国ではない。
言論の自由を封殺するという事に与しないという以上に明確な答えはない」と発言し、核武装を容認する物として批判される(本人は非核三原則を堅持すると明言はしている)。
この発言が北朝鮮の核保有を正当化しかねないと問題になり12月に民主、社民、共産など野党4党から外相としての不信任決議案を提出された。
2007年1月26日、第166回通常国会衆議院本会議の外交に関する演説において「近隣諸国に目を転じますと、まず中国との間には、1日1万人以上、 年間400万人を超す相互の往来があり、経済関係がとみに緊密な現状を物語っています。
本年も政治と経済の両輪を力強く回します。
共通の戦略的利益に立脚した、互恵関係を築いてまいります。」
「日本と韓国は、互いにとって最も近く、基本的価値を共にする大切な民主主義国同士であります。
その様な間柄にふさわしい、未来志向の関係を打ち立てます。」
「ODAは、我が国外交の重要な手段であります。
国際社会の一員としての責務を果たし、かつ、自らの繁栄を確保していく為に、ODAを一層戦略的に実施します。
「自由と繁栄の弧」形成の為にも、ODAを活用していきます。
その上で、ODA事業量の100億ドルの積み増し、又対アフリカODAの倍増等、対外公約を達成すべく努めてまいります。」と述べた。
2007年2月3日、京都市内の講演で「ドンパチが終わった後が大変だというのがイラクで分かった。
(アメリカがイラクを)占領した後のオペレーションは非常に幼稚」とアメリカのイラク政策を批判した。
4-3). 歴史認識関連 2003年5月31日、東京大学学園祭において「創氏改名は朝鮮人が望んだ、日本はハングル普及に貢献した」と述べた。
当該項目も参照。
総務大臣在任中の2005年10月15日、この日に開館した九州国立博物館の開館記念式典での来賓祝辞の中で「一文化、一文明、一民族、一言語の国は日本のほかにはない」と発言。
アイヌ民族や琉球民族等には独自の文化、民族、言語がある(詳しくは概要、住民の民族性、言語、アイヌ、琉球の項を参照)との批判が巻き起こった。
又、中国や朝鮮半島との交流の中で日本文化が形成されてきた歴史を展示する同博物館の趣旨をも理解していないと、関係者の中には落胆する者もいた。」
尚、同博物館は選挙区は異なるものの彼の地元である福岡県内にある。
2006年2月4日の福岡市での講演において、日本が植民地台湾の義務教育に力を入れたと指摘した上で「台湾はもの凄く教育水準が上がって識字率等が向上したお陰で今極めて教育水準が高い国であるが故に、今の時代に追いつけている」
「我々の先輩はやっぱりちゃんとした事をやっとるなと正直その時思った」と述べた。
2007年2月19日、衆議院予算委員会において米議会に提出された従軍慰安婦問題をめぐる対日非難決議案にある「日本軍による強制的な性奴隷化」といった記述について、「客観的な事実にまったく基づいていない。 はなはだ遺憾だ」と述べた。
2007年3月21日、長崎県時津町で講演。日本独自の中東和平外交として、ヨルダン渓谷の開発を進める「平和と繁栄の回廊」構想に触れ、「米国人にできないことを日本がやっている。
日本人というのは信用がある。青い目で金髪だったら多分駄目よ」と述べた。
「われわれは幸いにして黄色い顔をしている。
そこ(中東)で搾取をしてきたとか、ドンパチ、機関銃撃ったとか一回もない」と語った。
4-4). 靖国神社問題 2006年1月28日、名古屋で行われた公明党議員の会合で、「英霊は天皇陛下のために万歳と言ったのであり、首相万歳と言ったのはゼロだ。
天皇陛下が参拝なさるのが一番だ」と述べた。 「(天皇が)公人か私人かという論議の為参拝できなくなったが、解決の答えは幾つかあるはず」と付け加えた。
外交問題に飛び火した首相の参拝について「中国が(参拝を中断しろと)言えば言う程行かざるを得ない」とし、「之はたばこを吸うなと言うと吸いたくなるのと同じだ」と述べた。
2006年5月26日に都内ホテルで開かれた国際交流会議「アジアの未来」で講演し、「23日に自分がカタールで中韓の外相と会談したので関係改善の流れが出て来た」と発言。
之に対して韓国産業資源部長官は、「アジア共同体形成に関して各国間合意は出来たが、韓中日の共同体構築努力が他地域に比べ足りない、原因は一部政治家の靖国参拝や歴史問題だ、ヨーロッパがいかにして之を克服したか考えて欲しい」と講演した(日経26日夕刊記事)。
2006年8月8日に靖国神社を非宗教法人化する私案を朝日新聞に発表した。
2006年8月21日、自民党総裁選に立候補する事を正式に表明する。
総理総裁になった時には、靖国神社を上で述べられている様に非宗教法人化、最終的には特殊法人国立追悼施設靖国社にする事を公約に掲げた。
4-5). 漫画関連 自身のサイトに『ビッグコミックオリジナル』2003年7月2日増刊号のインタビュー(麻生太郎 コミックを語る)が収録されているが、それによると週10~20冊の漫画雑誌を読み『ジパング』や横山光輝版『三国志』、『風の大地』、『ジョジョの奇妙な冒険』、『ゴルゴ13』、『こちら葛飾区亀有公園前派出所』等がお気に入りで、必ず自分の車内には最新の週刊コミック誌を置いている程であるという。
漫画『ローゼンメイデン』の読者である噂が立ち、実際にインタビューを受けた事から、ネット上等で話題となった。
その為「ローゼン閣下」「ローゼン麻生」などの愛称で呼ばれる事もある。
この事は『メカビ Vol.1』(講談社で創刊された雑誌)の「麻生太郎 直撃! ローゼンメイデン疑惑」という記事で掲載されている。
但し、「少女漫画」と呼称する等、実際に読者であるかは疑問が残る。
又、実際に目撃されたといわれる場所で読んでいたか、とあるイベントで原作者PEACH-PITのサインを受けたか(原作者ブログより、ただし麻生宛の記述は無し)も適当にお茶を濁されただけであった。
手塚治虫の生前、彼に国民栄誉賞を贈るよう当時の中曾根首相か、後藤田官房長官のいずれかに進言したが、勲章(勲三等瑞宝章叙勲を指すと思われる)に落ち着いたという。
ネットでは漫画好きと目されており、一部からは漫画文化のよき理解者として非常に人気が高い。
一方、1989年 - 1991年に掛けての「有害コミック」騒動では、「有害コミック」を規制する立場から1991年「子供向けポルノコミック等対策議員懇話会」を結成し、会長となった。
今一番好きな漫画は『風の大地』と発言している。
『名探偵コナン』を使った外務省のPR冊子作成時には「漫画を通じ外務省を身近に感じてもらえたら」と出来栄えに満足していた。
[1] 因みにこの際、『名探偵コネン(英語での正しい発音)』と読み間違えた事にされた。
又、作者の青山剛昌の名前が読めなかった(「青山ごう…何て言ったっけな」と発言)。
2007年5月30日からウィーンで開催される核拡散防止条約(NPT)運用検討会議の第1回準備委員会で、日本政府代表団は広島の被爆体験を描いた漫画『はだしのゲン』の英訳版を加盟国に配布する事になった。 之は麻生の肝いりで実現したもの。
外務省が英語版30冊を出版社から譲り受け、今後も「漫画外交」を活発に展開させる予定。
(時事通信、2007年4月29日) 2007年5月22日、海外の漫画家を対象とした「国際漫画賞」を創立する事を発表。
本人は「漫画のノーベル賞の様な物を作りたい」と述べている
4-7). 差別とされた発言 被差別部落出身の野中広務に対し差別的発言をしていたのではないかと疑惑がある。
魚住昭『野中広務 差別と権力』によると、麻生が過去に「野中のような部落出身者を日本の総理にはできないわなあ」という旨の差別的発言をしたとして、
2003年9月の麻生も同席する自民党総務会において、野中広務に批判された。
2005年2月22日、衆議院総務委員会の議論でも取り上げられたが、麻生は「その様な発言(=野中に対する差別的発言)をした事は全くありません」と答弁している。
2006年12月13日、シンポジウム「今こそ部落問題を語る」にて、講師として招聘された野中が、麻生の差別的発言について語った。
それによると、外務大臣当時の麻生が大勇会の会合で「野中の様な部落出身者を日本の総理にしていいのか」と発言し、野中は大勇会会員3名からその発言内容を確認したという 週刊現代の取材に対し、麻生太郎事務所は「衆議院総務委員会で説明しており、それ以上のコメントはない」と回答しているこの回答を受けた週刊現代の取材に対し、野中は「事実無根だなんて。
その会議(=差別的発言があったとされる大勇会の会合)におった人間が言ってますよ。
河野さん(=河野洋平)も言っているし。」と発言した。
2007年7月19日、富山県高岡市内で講演会において、国内外の米価を比較する例えとして「7万8000円と1万6000円はどちらが高いか。
アルツハイマーの人でもわかる」と発言し、アルツハイマー患者に誤解を与える表現として批判される。
[2] 之については野党からの反発は勿論、与党からも参院選に悪影響だと懸念され、塩崎恭久内閣官房長官からも「適格性を欠く」と批判を浴びた。
麻生は翌7月20日、「不適切なものがあった。
発言を撤回し、不快な念を持たれた方々と関係者の方々にお詫び申し上げたい」
[1]と謝罪した上、撤回した。
2007年7月20日、鳥取県倉吉市での演説で、「酒はきちがい水だとか何とか皆言うもんだから、勢いとかいろんな事ありますよ」と発言した事について、毎日新聞は問題表現であるとした 又、自民党の町村派幹部は参院選後の政局に響くとの見方を示し、社民党の福島瑞穂党首は「全く人権感覚がない」として罷免を求める考えをしめした[2][3]。
尚、「酒はきちがい水」というのは古くからある慣用表現である。
4-8). その他 10月20日にはホームレスに対しての発言が、差別的であるとして、各地の日雇い労働者及び野宿者支援組織等から抗議を受けた[4]。
谷垣禎一前財務相との「安倍晋三首相には向かっても何もできない。
だからオレと組め。 その代わり、オレに総理を先にやらせろ」という会話内容を、谷垣が述べたが、之は大袈裟に話を膨らませただけで、麻生は之に対して「こっちはまだ解答を貰っておらず、そういう事(会話内容)を全然関係ない所でしゃべって、マナーとしていかがなもんか」と述べた。
3年10ヶ月の国民年金保険料未払い期間があった事が、2004年9月に判明した。 菅直人が「未納三兄弟」と呼称した内の一人である。
詳細は政治家の年金未納問題を参照の事。
2007年7月19日、富山県高岡市内での講演会には高齢の支持者もいたが、麻生外相は年金記録問題について「この問題は30年後の話。
今払っている奴が心配するのは分かるが、お宅等は関係ないんだ」と発言している[5]。
一連の年金記録問題は、社会保険庁の怠慢の影響で、現在の一部受給者も受給額が不足している事が判明している為、麻生外相は年金問題を理解せずにコメントしている事になる。
5). 統一教会との関係 勝共推進議員であり、勝共連合から送り込まれた統一教会員秘書を一人受け入れ、1988年の勝共推進議員教育報告書や
1988年の統一協会総支部活動報告所にも名前を連ね、統一協会支部結成貢献ランクはBと評価されていた、などと一部メディアにおいて報道された。
[6] 近年は統一協会系のNPOである日韓トンネル研究会九州支部顧問に就任したとされ、党内では夢実現21世紀会議議長として日韓トンネル研究会の役員からヒアリングを行う等して、日韓トンネルを推進している。
6).関連項目:麻生氏、宇都宮氏、筑豊御三家、麻垣康三 士志の会、古賀誠、平沼赳夫、高村正彦、青年会議所、 為公会、福岡県出身の有名人一覧
6-1). 参考文献 広瀬隆 『私物国家 日本の黒幕の系図』 光文社 2000年
191、333貢 佐藤朝泰 『豪閥 地方豪族のネットワーク』 立風書房 2001年
451、500貢 神一行 『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』 角川書店 2002年
31、42-44貢 魚住昭 『野中広務 差別と権力』 講談社 2004年06月29日 ISBN 4062123444 『メカビ
Vol.01』講談社 2006年06月02日 ISBN 4061795910 「野中広務元官房長官『山崎拓衆院議員は
『週刊文春』を部落問題で恫喝した』」『週刊現代』49巻1号、講談社、2007年1月13日、46-47頁。
7). 外部リンク:麻生氏系譜 麻生グループ---麻生とその沿革--- 麻生鉱業の小鳥塚、麻生太郎事務所、麻生の歴史
8). 脚注 ^ 「麻生外相が陳謝――アルツハイマー発言」『朝日新聞社』朝日新聞東京本社、2007年7月21日、34面。 ^ 毎日新聞 2007年7月20日
^ 麻生氏失言:政権タガ外れ露呈「安倍後継」レースに影響?(MSN毎日インタラクティブ) ^
http://www.tokyohomeless.com/body2-75.html
^ 麻生外相:「アルツハイマーでも分かる」 講演で発言 『毎日新聞』、2007年7月19日
^ 『週刊現代』99.2.27号 先代:田中秀征 経済企画庁長官 1996 - 1997 次代:尾身幸次
先代:額賀福志郎 経済財政政策担当大臣
2001 次代:竹中平蔵 先代:片山虎之助 総務大臣 第3代:
2003 第4代:
2003 - 2005 第5代:
2005 次代:竹中平蔵 先代:町村信孝 外務大臣 第136・137代:
2005 ‐ 次代: 現職 先代:亀井静香 自由民主党政務調査会長 2001 - 2003 次代:額賀福志郎
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BA%BB%E7%94%9F%E5%A4%AA%E9%83%8E"
より作成 カテゴリ: 雑多な内容を箇条書きした節のある記事 福岡県の政治家 福岡県出身の人物 飯塚市 日本の実業家 日本の国会議員 日本の閣僚経験者 日本のオリンピック選手 表現規制問題に関連する人物 馬主 1940年生
●麻生批判の声 http://mixi.jp/view_diary.pl?id=517934447&owner_id=460954
2007年7月18日水曜日
反省しなければならない「ゆとり教育」!
ゆとり教育とは、
学習者が詰め込みによる焦燥感を感じない様、自身の多様な能力を伸張させる事を目指す教育理念の事である。
以下では特に断り書きがない限り、日本での事例について述べる。
1). 概念 1-1). 知識重視型教育 ゆとり教育以前の知識重視型教育は、元々第二次世界大戦降伏後(1945年以降)の経験主義的な教育に対する「学力が低下している」という批判による教育方針転換の結果でもある。
又、学習指導要領が法的な性質をもつようになったのも1958年(昭和33年)以降であり、それまでは学習指導要領の名称も試案とされており、法的な性質はなかった。
2). 経緯 1977年(昭和52年) 学習指導要領の全部改正 (1980年度〔昭和55年度〕から実施) 学習内容、授業時数の削減。
1989年(平成元年) 学習指導要領の全部改正 (1992年度〔平成4年度〕から実施) 学習内容、授業時数の削減。 小学校の第1学年・第2学年の理科、社会を廃止して、教科生活を新設。
1992年(平成4年)9月から第2土曜日が休業日に変更。
1995年(平成7年)4月からはこれに加えて第4土曜日も休業日となった。
1999年(平成11年) 学習指導要領の全部改正 (2002年度〔平成14年度〕から実施) 学習内容、授業時数の削減。 完全学校週5日制の実施。
「総合的な学習の時間」の新設。
2004年 国際的な学力比較調査(PISA2003, TIMSS2003)の結果が発表され、日本の点数低下が問題となる。
2005年 中山成彬文部科学大臣、学習指導要領の見直しを中央教育審議会に要請。
次年度より指導要領外の学習内容が「発展的内容」として教科書に戻る。
3). 結果 ゆとり教育(ここでは平成10年度から11年度にかけて告示された指導要領を指す)は、学力低下を引き起こすと心配されていた。
成果については(文部科学省内においてすら)定まってはいない[1][2]。
学力低下に関わる議論においてはゆとり教育は批判されている
3-1). 試験結果 学力の上昇を示すもの、低下を示すもの、共にあるのが現状である。
例えば、ゆとり教育見直しの機運が高まるきっかけとなった国際数学・理科教育動向調査(TIMSS2003 2003年にIEA(国際教育到達度評価学会)が実施)[1]では、中学2年生の数学は前回のTIMSS1999年よりも9点、前々回のTIMSS1995よりも11点、いずれも有意に低くなっており(順位は5位の儘)、数学が楽しいと思う者の割合も減少している。
一方で、平成15年度 小・中学校教育課程実施状況調査(2003年に国立教育政策研究所が実施)では、多くの学年、教科で前回調査と同一の問題については、正答率が有意に上昇した設問が、正答率が有意に下降した問題よりも多かった。
特に、小学生と中学3年生の学力向上が顕著で、理科では前回より正答率が上昇し、アンケートで「勉強が好き」「どちらかというと好きだ」と答えた子の割合は増加傾向にある。
その他結果の詳細は、学力低下#試験・調査結果を参照されたい。
4). 方針転換 2005年に中山文部科学大臣が中央教育審議会に、学習指導要領の見直しを指示した。
又、教育再生会議(内閣府設置会議)が出した報告書(第1次:2007年1月24日 第2次:2007年6月1日)において、「授業時間の10%増(必要に応じて土曜日授業の復活)」等が盛り込まれている。
5). 様々な議論 5-1). 学力低下の原因? 今日の世論では、ゆとり教育の実施による学習内容の削減が基礎学力の低下を招いているという批判・否定的な意見が非常に多い。
(一部の塾・学校等では、ゆとり教育が開始される以前からこの様な世論になる事を予想していた) その一方で、基礎学力の低下の原因がゆとり教育と決め付けてしまうのは難しく他にも原因があるのではないか、等の意見もある。
詳細は学力低下を参照。 又、基礎学力の低下により中学高校での学習に支障が出ているとの指摘もある。
しかし、こうした現象の背景には生徒数の減少による受験圧力の低下があるという説(小川、2000年)や学級崩壊との関連もあり、一概に学習指導要領の内容のみに責を帰すべきものかどうか、結論は出ていない。
5-2). 格差を固定する? ゆとり教育が学力低下を引き起こすという危惧から、親は児童・生徒を学習塾に通わせる様になっている[3]。
之によって、学力格差が発生しているという意見がある。 詳細は学力格差を参照。
但し、教育エートスの差異は1960年代の高度成長期に由来するとの説もある。 即ち、高度成長期に「金の卵」として都市部に出てきた人々の子供・孫の家庭では積極的に教科学力を獲得させようとする意欲に乏しい事が多く、こうした層の子弟が大学全入時代における受験圧力の消失によって完全に学校教育への意欲を失い、学習放棄をしているとの説である[4]。
6). 指導要領の解釈のブレの問題 従来、学習指導要領に示される学習内容は、「到達目標」(教育目的における十分条件)とされてきた。
しかし、実際には「これ以上教えてはいけない」という硬直的な解釈もまかり通り、学習内容の削減と共に学習進度の早い児童・生徒(浮きこぼれ等)に対する対処が問題となった。
2002年(平成14年)に文部科学省は、学習指導要領の内容を最低基準と位置づけ、発展的な学習内容を教科書に掲載したり、各学校で発展的な学習の指導を行っても良いという方針に改めた。
(尚、この方針は、“発展的な学習の指導を行わなければならない”という訳ではなく、“学習指導要領に定めた最低基準を満たし更に余裕のある児童・生徒に対し、その実態に合わせてさらに発展的な学習の指導を行っても良い”という物である) この事と整合性をとる為、2005年の教科書検定では小中学校の教科書にも発展的な内容の記述が容認された。 7). 総合的な学習の問題 ゆとり教育によって導入された「総合的な学習の時間」は、教員や児童・生徒の力量・意欲が高い場合は成功しやすく、そういった要素に左右されるという欠点を持つとされる。
実際、総合的な学習の時間を有意義に使う学校もある一方で、単に不足している授業時間の補完等学力向上に使う等という所も少なくなかったとされる。
ただ、基礎学力が低い生徒は、「総合的な学習の時間」の目的とされる「主体的に考える力」等も低くなる傾向がある[5]。
8). デンマーク ゆとり教育をすすめていたデンマークでも、国際学習到達度調査(PISA)の結果が下がり、学力低下が議論になった。 教育改革として、義務教育の1年早期化などが議論されている[6]。
学校の現場では、学力向上を目指した教育改革に反発がある物の、生徒の親は学力低下への不安が強い[6]。
9). 脚注 [ヘルプ]^ 2005年4月23日付配信『「好成績」戸惑う文科省 なぜ、上向いたのか』(毎日新聞)
1^ 2007年4月14日付配信『ゆとり教育:学力向上にプラスかマイナスか 揺れる評価』(毎日新聞)
2^ 2005年12月15日付 『小学生の塾費用16%増加 学力低下の不安から』朝日新聞
3^ 小川、2000年
4^ 『「学力低下」の実態』:ISBN 978-4000092784 2002年 苅谷剛彦・清水睦美・志水宏吉・諸田裕子
5^ a b 『デンマークで“ゆとり教育”見直し』2006年7月4日付配信 読売新聞
10). 関連項目:教育社会学 - 教育問題 新学力観 - 学力 - 生きる力 学習指導要領 - 中央教育審議会 - 文部科学省 総合的な学習の時間,学校週5日制,学校 - 学習塾、学力低下 落ちこぼれ - 浮きこぼれ、円周率は
3、学力格差、教育格差 少子化、ゆとり世代 寺脇研(元文部官僚で「ゆとり教育」推進者としてマスコミの前面に幾度となく出ては同省の見解のスポークスマン的な役割を担っていた。
) 日本教職員組合(自社さ政権以降、文部省中央教育審議会に委員を送り出すようにもなった。) PISA(学習到達度調査)
11). 参考文献 山内乾史・原清治編著 『リーディングス 日本の教育と社会1 学力問題・ゆとり教育』 日本図書センター、2006年。ISBN 4284301160 伊藤敏雄 『誰も教えてくれない教育のホントがよくわかる本 ゆとり教育になって学校はどうなった?』 文芸社、 2006年。
ISBN 4286009548 藤田英典 『義務教育を問いなおす』 筑摩書房、2005年。
ISBN 4-480-06243-2 陰山英男 『学力の新しいルール』 文藝春秋、2005年。
ISBN 9784163674803 苅谷剛彦 『教育改革の幻想』 筑摩書房、2002年。
ISBN 4480059296 苅谷剛彦 『なぜ教育論争は不毛なのか』 中央公論新社、2003年。
和田秀樹 『「ゆとり教育」から我が子を救う方法』 東京書籍、2002年。 藤原和博 『公教育の未来』 ベネッセコーポレーション、 2002年。
ISBN 4-8288-3712-4 寺脇研 『21世紀の学校はこうなる―“ゆとり教育”の本質はこれだ』 新潮社、2001年。
ISBN 4-10-290067-5 西村和雄 『ゆとりを奪った「ゆとり教育」』 日本経済新聞社、2001年。
ISBN 4-532-14916-9 斎藤貴男 『機会不平等』 文藝春秋、2000年。
ISBN 4-16-356790-9 小川洋 『なぜ公立高校はダメになったのか―教育崩壊の真実』 亜紀書房、2000年。ISBN 4-7505-9903-4 12). 外部リンク:新学習指導要領 - 文部科学省 平成15年度 小・中学校教育課程実施状況調査 -国立教育政策研究所 あなたはどの指導要領?
「ゆとり見直し」先行 第4期中教審 朝日新聞2007/2/5 学習指導要領の変遷図 - 教心ネット 3+2×4=20?どうなるゆとり世代の学力 All About ゆとり教育で学力が向上した ~逆風を追い風に変えた京都の教育改革 ドーなってるの?
ゆとり教育 この「ゆとり教育」は、教育に関連した書きかけ項目です。この記事を加筆、訂正などして下さる協力者を求めています。
(ポータル 教育) "http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%86%E3%81%A8%E3%82%8A%E6%95%99%E8%82%B2"
より作成 カテゴリ: 書きかけの節のある項目 学校教育 教育学 社会学 教育問題 教育に関するスタブ
学習者が詰め込みによる焦燥感を感じない様、自身の多様な能力を伸張させる事を目指す教育理念の事である。
以下では特に断り書きがない限り、日本での事例について述べる。
1). 概念 1-1). 知識重視型教育 ゆとり教育以前の知識重視型教育は、元々第二次世界大戦降伏後(1945年以降)の経験主義的な教育に対する「学力が低下している」という批判による教育方針転換の結果でもある。
又、学習指導要領が法的な性質をもつようになったのも1958年(昭和33年)以降であり、それまでは学習指導要領の名称も試案とされており、法的な性質はなかった。
2). 経緯 1977年(昭和52年) 学習指導要領の全部改正 (1980年度〔昭和55年度〕から実施) 学習内容、授業時数の削減。
1989年(平成元年) 学習指導要領の全部改正 (1992年度〔平成4年度〕から実施) 学習内容、授業時数の削減。 小学校の第1学年・第2学年の理科、社会を廃止して、教科生活を新設。
1992年(平成4年)9月から第2土曜日が休業日に変更。
1995年(平成7年)4月からはこれに加えて第4土曜日も休業日となった。
1999年(平成11年) 学習指導要領の全部改正 (2002年度〔平成14年度〕から実施) 学習内容、授業時数の削減。 完全学校週5日制の実施。
「総合的な学習の時間」の新設。
2004年 国際的な学力比較調査(PISA2003, TIMSS2003)の結果が発表され、日本の点数低下が問題となる。
2005年 中山成彬文部科学大臣、学習指導要領の見直しを中央教育審議会に要請。
次年度より指導要領外の学習内容が「発展的内容」として教科書に戻る。
3). 結果 ゆとり教育(ここでは平成10年度から11年度にかけて告示された指導要領を指す)は、学力低下を引き起こすと心配されていた。
成果については(文部科学省内においてすら)定まってはいない[1][2]。
学力低下に関わる議論においてはゆとり教育は批判されている
3-1). 試験結果 学力の上昇を示すもの、低下を示すもの、共にあるのが現状である。
例えば、ゆとり教育見直しの機運が高まるきっかけとなった国際数学・理科教育動向調査(TIMSS2003 2003年にIEA(国際教育到達度評価学会)が実施)[1]では、中学2年生の数学は前回のTIMSS1999年よりも9点、前々回のTIMSS1995よりも11点、いずれも有意に低くなっており(順位は5位の儘)、数学が楽しいと思う者の割合も減少している。
一方で、平成15年度 小・中学校教育課程実施状況調査(2003年に国立教育政策研究所が実施)では、多くの学年、教科で前回調査と同一の問題については、正答率が有意に上昇した設問が、正答率が有意に下降した問題よりも多かった。
特に、小学生と中学3年生の学力向上が顕著で、理科では前回より正答率が上昇し、アンケートで「勉強が好き」「どちらかというと好きだ」と答えた子の割合は増加傾向にある。
その他結果の詳細は、学力低下#試験・調査結果を参照されたい。
4). 方針転換 2005年に中山文部科学大臣が中央教育審議会に、学習指導要領の見直しを指示した。
又、教育再生会議(内閣府設置会議)が出した報告書(第1次:2007年1月24日 第2次:2007年6月1日)において、「授業時間の10%増(必要に応じて土曜日授業の復活)」等が盛り込まれている。
5). 様々な議論 5-1). 学力低下の原因? 今日の世論では、ゆとり教育の実施による学習内容の削減が基礎学力の低下を招いているという批判・否定的な意見が非常に多い。
(一部の塾・学校等では、ゆとり教育が開始される以前からこの様な世論になる事を予想していた) その一方で、基礎学力の低下の原因がゆとり教育と決め付けてしまうのは難しく他にも原因があるのではないか、等の意見もある。
詳細は学力低下を参照。 又、基礎学力の低下により中学高校での学習に支障が出ているとの指摘もある。
しかし、こうした現象の背景には生徒数の減少による受験圧力の低下があるという説(小川、2000年)や学級崩壊との関連もあり、一概に学習指導要領の内容のみに責を帰すべきものかどうか、結論は出ていない。
5-2). 格差を固定する? ゆとり教育が学力低下を引き起こすという危惧から、親は児童・生徒を学習塾に通わせる様になっている[3]。
之によって、学力格差が発生しているという意見がある。 詳細は学力格差を参照。
但し、教育エートスの差異は1960年代の高度成長期に由来するとの説もある。 即ち、高度成長期に「金の卵」として都市部に出てきた人々の子供・孫の家庭では積極的に教科学力を獲得させようとする意欲に乏しい事が多く、こうした層の子弟が大学全入時代における受験圧力の消失によって完全に学校教育への意欲を失い、学習放棄をしているとの説である[4]。
6). 指導要領の解釈のブレの問題 従来、学習指導要領に示される学習内容は、「到達目標」(教育目的における十分条件)とされてきた。
しかし、実際には「これ以上教えてはいけない」という硬直的な解釈もまかり通り、学習内容の削減と共に学習進度の早い児童・生徒(浮きこぼれ等)に対する対処が問題となった。
2002年(平成14年)に文部科学省は、学習指導要領の内容を最低基準と位置づけ、発展的な学習内容を教科書に掲載したり、各学校で発展的な学習の指導を行っても良いという方針に改めた。
(尚、この方針は、“発展的な学習の指導を行わなければならない”という訳ではなく、“学習指導要領に定めた最低基準を満たし更に余裕のある児童・生徒に対し、その実態に合わせてさらに発展的な学習の指導を行っても良い”という物である) この事と整合性をとる為、2005年の教科書検定では小中学校の教科書にも発展的な内容の記述が容認された。 7). 総合的な学習の問題 ゆとり教育によって導入された「総合的な学習の時間」は、教員や児童・生徒の力量・意欲が高い場合は成功しやすく、そういった要素に左右されるという欠点を持つとされる。
実際、総合的な学習の時間を有意義に使う学校もある一方で、単に不足している授業時間の補完等学力向上に使う等という所も少なくなかったとされる。
ただ、基礎学力が低い生徒は、「総合的な学習の時間」の目的とされる「主体的に考える力」等も低くなる傾向がある[5]。
8). デンマーク ゆとり教育をすすめていたデンマークでも、国際学習到達度調査(PISA)の結果が下がり、学力低下が議論になった。 教育改革として、義務教育の1年早期化などが議論されている[6]。
学校の現場では、学力向上を目指した教育改革に反発がある物の、生徒の親は学力低下への不安が強い[6]。
9). 脚注 [ヘルプ]^ 2005年4月23日付配信『「好成績」戸惑う文科省 なぜ、上向いたのか』(毎日新聞)
1^ 2007年4月14日付配信『ゆとり教育:学力向上にプラスかマイナスか 揺れる評価』(毎日新聞)
2^ 2005年12月15日付 『小学生の塾費用16%増加 学力低下の不安から』朝日新聞
3^ 小川、2000年
4^ 『「学力低下」の実態』:ISBN 978-4000092784 2002年 苅谷剛彦・清水睦美・志水宏吉・諸田裕子
5^ a b 『デンマークで“ゆとり教育”見直し』2006年7月4日付配信 読売新聞
10). 関連項目:教育社会学 - 教育問題 新学力観 - 学力 - 生きる力 学習指導要領 - 中央教育審議会 - 文部科学省 総合的な学習の時間,学校週5日制,学校 - 学習塾、学力低下 落ちこぼれ - 浮きこぼれ、円周率は
3、学力格差、教育格差 少子化、ゆとり世代 寺脇研(元文部官僚で「ゆとり教育」推進者としてマスコミの前面に幾度となく出ては同省の見解のスポークスマン的な役割を担っていた。
) 日本教職員組合(自社さ政権以降、文部省中央教育審議会に委員を送り出すようにもなった。) PISA(学習到達度調査)
11). 参考文献 山内乾史・原清治編著 『リーディングス 日本の教育と社会1 学力問題・ゆとり教育』 日本図書センター、2006年。ISBN 4284301160 伊藤敏雄 『誰も教えてくれない教育のホントがよくわかる本 ゆとり教育になって学校はどうなった?』 文芸社、 2006年。
ISBN 4286009548 藤田英典 『義務教育を問いなおす』 筑摩書房、2005年。
ISBN 4-480-06243-2 陰山英男 『学力の新しいルール』 文藝春秋、2005年。
ISBN 9784163674803 苅谷剛彦 『教育改革の幻想』 筑摩書房、2002年。
ISBN 4480059296 苅谷剛彦 『なぜ教育論争は不毛なのか』 中央公論新社、2003年。
和田秀樹 『「ゆとり教育」から我が子を救う方法』 東京書籍、2002年。 藤原和博 『公教育の未来』 ベネッセコーポレーション、 2002年。
ISBN 4-8288-3712-4 寺脇研 『21世紀の学校はこうなる―“ゆとり教育”の本質はこれだ』 新潮社、2001年。
ISBN 4-10-290067-5 西村和雄 『ゆとりを奪った「ゆとり教育」』 日本経済新聞社、2001年。
ISBN 4-532-14916-9 斎藤貴男 『機会不平等』 文藝春秋、2000年。
ISBN 4-16-356790-9 小川洋 『なぜ公立高校はダメになったのか―教育崩壊の真実』 亜紀書房、2000年。ISBN 4-7505-9903-4 12). 外部リンク:新学習指導要領 - 文部科学省 平成15年度 小・中学校教育課程実施状況調査 -国立教育政策研究所 あなたはどの指導要領?
「ゆとり見直し」先行 第4期中教審 朝日新聞2007/2/5 学習指導要領の変遷図 - 教心ネット 3+2×4=20?どうなるゆとり世代の学力 All About ゆとり教育で学力が向上した ~逆風を追い風に変えた京都の教育改革 ドーなってるの?
ゆとり教育 この「ゆとり教育」は、教育に関連した書きかけ項目です。この記事を加筆、訂正などして下さる協力者を求めています。
(ポータル 教育) "http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%86%E3%81%A8%E3%82%8A%E6%95%99%E8%82%B2"
より作成 カテゴリ: 書きかけの節のある項目 学校教育 教育学 社会学 教育問題 教育に関するスタブ
2007年7月16日月曜日
ペンネ-ムの色々な読み方の意味が解りますか?
最近の作家の中には、本名を使う人もいますが、やはり作家と言えば、ペンネ-ムが付き物です
①永井荷風は恋人に因んだ名前。
荷風と言うペンネ-ムは、初恋の人、お蓮さんに寄せる慕情をひそかに胸に秘めて、「蓮」を「荷」にかえて、その香りを慕うと言う意味で、恋人に因んだ名前と言われています。
②二葉亭四迷は親父の怒鳴り声。
明治初期の文人で「浮雲」や「平凡」で有名な二葉亭四迷は、小さい頃に本ばかり読んでいたので、父親から「お前の様な奴はくたばってしめえ」と怒鳴られた事があり、それをもじって ペンネ-ムにしたというのは有名なお話です。
③外国人の名前を日本名にした作家達。
有名な推理作家江戸川乱歩は、アメリカの探偵小説家のエドガ-・アラン・ポ-を日本名にして、ペンネ-ムとした物ですが、こうしたペンネ-ムの付け方をした人は、この外にも沢山います。 又、東大出身の小説家三浦朱門は「赤門」と朱門を引っ掛けて、更にシモンをもじったもの。
④本名のアナグラムがペンネ-ムの江戸川乱歩賞受賞作家の泡 坂妻夫。
奇術師でもあり、推理作家でもある泡坂妻夫は、如何にも奇術師らしい奇抜な着想で、本名の厚川昌夫のアナグラムでペンネ-ムを作っています。 因みに、アナグラムとは、名前を構成している文字「あ・つ・か・わ・ま・さ・お」をバラバラにして並べ方をかえて「あ・わ・さ・か・つ・ま・お」と別の名前を考え出す事です。
⑤直木賞作家の色川武大のもう一つのペンネ-ムは麻雀の最中に誕生! 色川武大と言う小説家には、もう一つ雀士と言う顔があります が、この時の名前が阿佐田哲也、文字面から見ると、如何にも実名のようですが、実は、夜を徹して麻雀をやっている内に気がついてみたら、もう朝だったと言うので、「アサダテツヤ」と言う名を付け、当て字をしたものだそうです。
⑥芸能人にも多い変った芸名。
芸能人の中にも自分が尊敬する人の名をもじって付けた人がいます。 例えば益田喜頓はバスター・キ-トン、谷啓はダニ-・ケイを其々もじったものです。 又、タモリは本名の森田をひっ繰り返してカタカナにしたもので、愛称が其の儘芸名になった模様です。
皆さんもこんなペンネ-ムや芸名を知っている人教えて下さい! ●ペンネ-ムの由来事典 タイトル: ペンネ-ムの由来事典 責任表示: 紀田順一郎 著 出版地 : 東京 出版者 : 東京堂出版 出版年 : 2001.9 資料形態: 331p, 20cm, 2600円 注記: 書誌注記:文献 あり ISBN: 4-490-10581-9 全国書誌番号: 20200237 NDC : 910.26 ... http://refsys.ndl.go.jp/biblio.nsf/d1523b1894bbba1e49256a... - 3k - キャッシュ - 別ウィンドウ表示 - サイト内検索 ●詳細表示画面 請求記号: KG311-G193 タイトル: ペンネ-ムの由来事典 責任表示: 紀田順一郎 著 出版地 : 東京 出版者 : 東京堂出版 出版年 : 2001.9 資料形態: 331p, 20cm, 2600円 注記: 書誌注記:文献あり ISBN: 4-490-10581-9 全国書誌番号: 20200237 NDC : 910.26 書誌ID: 000003024125 解題:号や筆名の由来が判明している近現代の物故作家(約250人)を取り上げて、人名の五十音に排列し、略歴とその由来を解説。巻末に現存作家を含む、この本に掲載した作家を五十音順に並べ、その本名を記載する「号・筆名一覧」を付す。
①永井荷風は恋人に因んだ名前。
荷風と言うペンネ-ムは、初恋の人、お蓮さんに寄せる慕情をひそかに胸に秘めて、「蓮」を「荷」にかえて、その香りを慕うと言う意味で、恋人に因んだ名前と言われています。
②二葉亭四迷は親父の怒鳴り声。
明治初期の文人で「浮雲」や「平凡」で有名な二葉亭四迷は、小さい頃に本ばかり読んでいたので、父親から「お前の様な奴はくたばってしめえ」と怒鳴られた事があり、それをもじって ペンネ-ムにしたというのは有名なお話です。
③外国人の名前を日本名にした作家達。
有名な推理作家江戸川乱歩は、アメリカの探偵小説家のエドガ-・アラン・ポ-を日本名にして、ペンネ-ムとした物ですが、こうしたペンネ-ムの付け方をした人は、この外にも沢山います。 又、東大出身の小説家三浦朱門は「赤門」と朱門を引っ掛けて、更にシモンをもじったもの。
④本名のアナグラムがペンネ-ムの江戸川乱歩賞受賞作家の泡 坂妻夫。
奇術師でもあり、推理作家でもある泡坂妻夫は、如何にも奇術師らしい奇抜な着想で、本名の厚川昌夫のアナグラムでペンネ-ムを作っています。 因みに、アナグラムとは、名前を構成している文字「あ・つ・か・わ・ま・さ・お」をバラバラにして並べ方をかえて「あ・わ・さ・か・つ・ま・お」と別の名前を考え出す事です。
⑤直木賞作家の色川武大のもう一つのペンネ-ムは麻雀の最中に誕生! 色川武大と言う小説家には、もう一つ雀士と言う顔があります が、この時の名前が阿佐田哲也、文字面から見ると、如何にも実名のようですが、実は、夜を徹して麻雀をやっている内に気がついてみたら、もう朝だったと言うので、「アサダテツヤ」と言う名を付け、当て字をしたものだそうです。
⑥芸能人にも多い変った芸名。
芸能人の中にも自分が尊敬する人の名をもじって付けた人がいます。 例えば益田喜頓はバスター・キ-トン、谷啓はダニ-・ケイを其々もじったものです。 又、タモリは本名の森田をひっ繰り返してカタカナにしたもので、愛称が其の儘芸名になった模様です。
皆さんもこんなペンネ-ムや芸名を知っている人教えて下さい! ●ペンネ-ムの由来事典 タイトル: ペンネ-ムの由来事典 責任表示: 紀田順一郎 著 出版地 : 東京 出版者 : 東京堂出版 出版年 : 2001.9 資料形態: 331p, 20cm, 2600円 注記: 書誌注記:文献 あり ISBN: 4-490-10581-9 全国書誌番号: 20200237 NDC : 910.26 ... http://refsys.ndl.go.jp/biblio.nsf/d1523b1894bbba1e49256a... - 3k - キャッシュ - 別ウィンドウ表示 - サイト内検索 ●詳細表示画面 請求記号: KG311-G193 タイトル: ペンネ-ムの由来事典 責任表示: 紀田順一郎 著 出版地 : 東京 出版者 : 東京堂出版 出版年 : 2001.9 資料形態: 331p, 20cm, 2600円 注記: 書誌注記:文献あり ISBN: 4-490-10581-9 全国書誌番号: 20200237 NDC : 910.26 書誌ID: 000003024125 解題:号や筆名の由来が判明している近現代の物故作家(約250人)を取り上げて、人名の五十音に排列し、略歴とその由来を解説。巻末に現存作家を含む、この本に掲載した作家を五十音順に並べ、その本名を記載する「号・筆名一覧」を付す。
2007年7月15日日曜日
日本人は江戸時代に数学のレベルは高かったか?
私達が、今使用しているのは西洋数学です。
エジプトに端を発し、ギリシャをへて、何千年の歴史の中から成立して来た物です。
ところで、日本には和算という数学がありました。 之は、江戸時代の初期に始まったもので、幕末時代には、西洋数学のレベルに達していたというのです。
西洋では何千年も掛かって、大学者が研究してきた数学を日本では僅か300年足らずの期間に、それも町や村の庶民の間に根を下ろし、研究され、高度にに発達して来ているのです。
この江戸時代の数学が、どんなに一般庶民の物であったかは、各地の神社、仏閣に掲げられた算額から、良く分かります。 「算額」というのは、自分が解いた数学を、額に書いて神仏に掲げるもので、初めは「数学絵馬」といっていました。
額には問題、答え、解き方、幾何学図形、そして、先生と自分の名前等が書かれています。 例えば、京都の八坂神社にあるものは、当時の数学者、長谷川(りんかん)が掲げた物で、現代数学でいえば、七十次方程式で無ければ解けない様な問題らしいです。
岩手県の竜泉寺に掲げられた物は三七桁という大きな数の、二六乗根を出せという物で、横二メ-トルもある額一杯に計算がしてあるらしいです。
京都の安井金比羅宮に在る物は、現代数学の等比級数に当る物で、どうやら子供が習った物らしく、四季の数学という題で、分りやすく出題してあります。
日本中には、この様な算額が数多く残っているそうです。 この算額の名前を見ると鳥居の政松とか、樽尾の平吉とか、(そまし=きこり)の文蔵等という素朴な名前が多いのです 今は西洋数学の押されて、影の薄く成った和算ですが、江戸時代には実に多くの一般庶民が勉強し、しかも、其れが高いレベルに達していたかを再認識して頂きたいです!
和算とは日本独自に発達した数学である。 江戸時代には大いに発展し、西洋とは独自に積分の発見等がなされた。
1). 歴史:和算は中国の数学から多大な影響を受けている。
中国では「九章算術」と呼ばれる数学書が漢代には登場していた。
「九章算術」では面積の計算法、比例、反比例、ピタゴラスの定理などが紹介されている。
7世紀以降、遣隋使、遣唐使の派遣などにより、中国の文化が日本に次々と流入する様になる。
中国の律令制を元に作られた大宝律令(702年)では、算博士と呼ばれる官職が定められていた。
算博士は「九章算術」を始めとした中国の算書の知識が要求された。
万葉集(成立は759年以前と見られる)には次の様な歌がみられる。
若草乃 新手枕乎 巻始而 夜哉将間 二八十一不在國 (わかくさの にひたまくらを まきそめて よをやへだてる にくくあらなくに 巻十一 2542番) 「くく」という読みに「八十一」という漢字が当てられており、既に九九が日本で知られていた事がわかる。
江戸時代に和算は大いに発展した。 このきっかけになったのが1627年(寛永4年)、吉田光由によって書かれた塵劫記(じんこうき)である。
明代の算術書『算法統宗』(さんぽうとうそう)を模範とした物で、そろばんの使用法や測量法といった実用数学に加え、「継子立て」や「ねずみ算」といった数学遊戯が紹介されている。
『塵劫記』はベストセラーとなり、初等数学の標準的教科書として江戸時代を通じて用いられた。
江戸時代には、整数論、解析学といった高等数学も関孝和などの和算家によって発展した。
主に師弟関係で継承されてきた為、あまり一般に知られる事はなかったが積分の発見、整数論等の分野では西洋での発見と同時期、分野によってはより早く発見されていたものもある。
関孝和は1683年の『解伏題之法』にて行列式理論を発見している。
又、円に接する正多角形の辺の長さを用い、円周率を11桁まで得ている。
関の弟子である建部賢弘は級数展開を用いる事で、42桁まで正しい値を計算した。
安島直円(1739年-1798年)、和田寧(1787年-1840年)らによって和算の積分術は発展した。
之により、複雑な図形の面積や、立体の体積が計算できる様になった。
和算における多くの成果は各流派の中で秘伝とされ続けてきたが、関流算術を学んだ久留米藩主 有馬頼徸(1714年-1783年)は、1769年に出版した著書『拾璣算法』において関流の秘伝を公開し、和算文化の向上に大きな貢献を果たした。
明治時代に入り、西洋の数学が浸透するのに伴い、和算は衰退してしまった。
2). 算木とそろばん 算木を用いた数の表記和算で用いられる道具として、算木とそろばんが挙げられる。 いずれも『算法統宗』に使用法が紹介されている。
又、『塵劫記』にはそろばんの使用法が記載されている。 そろばんは会計等、広く用いられたのに対し、算木は専ら和算家によって使用され、天元術と呼ばれる解法によって代数方程式などの計算に用いられた。
天元術では、算盤(さんばん)と呼ばれる表と算木を用いた。
算盤とは碁盤の目状になった表であり、各列が一、十、百、千、万といった桁を表し、各行は商(答え)、実(定数項)、方(x)、廉(x2)、隅(x3)、三乗(x4)...と代数方程式の解及び各係数を表した。
各升目に置かれた算木を並べ替える事で、代数方程式を解いていった。 関孝和は算木を用いずに筆算により代数方程式を解く計算法を編み出した。
この方法は後に点竄術(てんざんじゅつ)と呼ばれ、和算の中心的な手法となった。
3).算額(さんがく)とは、額や絵馬に数学の問題や解法を記して、神社や仏閣に奉納した物である。 平面図形に関する問題の算額が多い。
数学者のみならず、一般の数学愛好家も数多く奉納している。
算額は、数学の問題が解けた事を神仏に感謝し、益々勉学に励む事を祈願して奉納されたと言われる。
やがて、人の集まる神社仏閣を数学の発表の場として、難問や、問題だけを書いて解答を付けずに奉納するものも現れ、その問題を見て解答を算額にしてまた奉納するといった事も行われた。
算額奉納の習慣は世界に例を見ず、日本独自の文化である。
明治時代になり鎖国が解けると、日本には洋算が導入される様になったが、この導入を容易にした事にも算額を奉納する風習が貢献した。
1997年に行われた調査結果によると、日本全国に975面の算額が現存している(『例題で知る日本の数学と算額』森北出版株式会社による)。
之等現存する算額で最も古いものは栃木県佐野市にある星宮神社にあり、1657年に掲げられたとされる。 4).和算の発展に関わった人物:毛利重能、吉田光由、関孝和 ★中根元圭:和算家。
「律原発揮(元禄5年、1692年)」において1オクターブを12乗根に開き十二平均律を作る方法を発表した。 ★建部賢弘:(たけべ かたひろ、寛文4年(1664年)~ 元文4年(1739年))は、江戸時代中期の数学者。
父は旗本の建部直恒。号を不休。 幼少から関孝和の門人となり、1716年(享保元年)将軍徳川吉宗の信頼を得、「日本総図」を作る。
関孝和の後継者という存在になり、その解説書を多数著作する 孝和の兄の賢明ら3人で著作した「大成算経」20巻は当時の和算学を集大成した労作である。 又、天文・暦学の業績も残した。
・著書:『日本総図』、『大成算経』 "http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%BA%E9%83%A8%E8%B3%A2%E5%BC%98" より作成 カテゴリ: 1664年生 1739年没 17世紀の数学者 18世紀の数学者 日本の数学者 江戸時代の人物 5). 関連項目:算法少女、絵馬
6). 参考文献 『例題で知る日本の数学と算額』深川英俊著 森北出版株式会社 ISBN 4-627-01641-7 『「数」の日本史』伊達宗行著 日本経済新聞社 ISBN 4-532-16419-2 『和算史年表』佐藤健一・小寺裕著 東洋書店
ISBN 4-885-95378-2 "http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E7%AE%97" より作成 カテゴリ: 算術 数学史 数学に関する記事 ●毛利 重能(もうり しげよし、生没年不詳)は江戸時代前期に活躍した和算家で、現在知られている中では最も古い。
通称・勘兵衛、官位・出羽守。 当初、豊臣秀吉に仕えて出羽守となり、明に留学して算術を学ぶ。
大坂の陣では同姓の誼で毛利勝永の部隊にいたとある。著書『割算書』(通称)は、『算用記』と共に江戸時代初期を代表する貴重な和算書である。 『割算書』の奥付には、「摂津国武庫郡瓦林から京都へ移り住み、“割算の天下一”という名(割算天下一指南の看板)の下に塾を開いた」と書かれている。
後の代表的な和算家吉田光由や今村知商、あるいは関孝和の師匠でもあった高原吉種などの弟子達を育てた事でも有名である。
門弟は数百人にも上ったとある。 この吉田光由・今村知商・高原吉種は俗に「毛利の三子」と呼ばれた高弟である。 熊野神社内に昭和47年に「毛利重能顕彰碑」が建立され、その傍らに昭和48年建立の「算学神社」がある。
この項目「毛利重能」は、数学に関連した書きかけの項目です。
加筆・訂正などをして下さる協力者を求めています。 (ポータル 数学/ウィキプロジェクト 数学) "http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E9%87%8D%E8%83%BD" より作成 カテゴリ: 日本の数学者 16世紀の数学者 17世紀の数学者 数学に関する記事 数学関連のスタブ項目 ●吉田 光由(よしだ みつよし、慶長3年(1598年)~ 寛文12年11月21日(1673年1月8日))は、江戸時代前期の和算家。
京都の豪商角倉家の一族。久庵と号す。 角倉了以は外祖父にあたる。
初の和算家毛利重能に師事した。 後一族の角倉素庵のもとで中国の数学書『算法統宗』の研究を行い、それを元に1628年(寛永5年)、著書『塵劫記』を出版した。 同書は絵を多用し基礎から応用まで容易に学習出来る様に書かれた数学入門の模範と評価された。
晩年には失明し、寛文12年75歳で没した。 "http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E5%85%89%E7%94%B1" より作成 カテゴリ: 江戸時代の人物 日本の数学者 16世紀の数学者 17世紀の数学者 数学に関する記事 1598年生 1673年没 ●関 孝和(せき たかかず、寛永17年(1642年)3月 - 宝永5年10月24日(1708年12月5日))は、江戸時代の和算家(数学者)である。
本姓内山氏、通称新助。字は子豹、自由亭と号した。 ★ 生涯と業績 関孝和は上野国(群馬県)の藤岡市で幕臣の家に生まれ、幼少時から、吉田光由の『塵劫記』を独学で学び、後に、そろばんや算木から抜け出し、独自の和算の世界を創始する。
甲斐国甲府藩(山梨県甲府市)の徳川綱重、徳川綱豊(徳川家宣)に仕え、綱豊が6代将軍となると直参として江戸詰めととなり、西の丸御納戸組頭に任じられた。 延宝2年(1674年)、『発微算法』を著し、筆算による代数の計算法(点竄術-てんざんじゅつ)を発明して、和算が高等数学として発展するための基礎をつくった。 他には円周率を正131072角形を使って、小数第11位までを求めている。
ニュートン・ライプニッツとほぼ同時期に微分・積分の一歩手前までたどり着いたとして知られるが、和算が自然科学から独立して発展してしまった為にそれ以上の発展を見られなかったと言われるが、ニュートンとほぼ同時期に微分・積分の一歩手前まで辿りついていたという意見には、色々な議論が交わされている。 数学者の藤原正彦氏は辿りついていたと主張している。
関は、ヨーロッパでライプニッツが行列式の概念に到達する以前に独自に同じ概念を研究していた(天和3年(1683年))。
又ヤコブ・ベルヌーイに先駆けてベルヌーイ数を発見していた事も知られている。 関はそれ以前の中国、日本の数学を吸収した上で、そのレベルを飛躍的に向上させ、後の和算の伝統を作った。 宝永5年10月24日(1708年12月5日)、病に倒れて死去。 東京都新宿区の浄輪寺に葬られている。
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E5%AD%9D%E5%92%8C" より作成 カテゴリ: 日本の数学者 数学に関する記事 17世紀の数学者 18世紀の数学者 1642年生 1708年没 ●有馬 頼徸(ありま よりゆき、1714年12月31日(正徳4年11月25日)~1783年12月16日(天明3年11月23日))は、筑後国久留米藩の第7代藩主。第6代藩主・有馬則維の五男。 母は小林氏。正室は京極宮家仁親王の娘。 官位は従四位下、左少将、玄蕃頭、中務大輔。 1). 生涯 1-1). 藩主として 享保14年(1729年)、16歳で家督を継いで藩主となる。
しかし若年の為、元文2年(1737年)までは藩政は重臣によって行なわれていた。
頼徸が政務を執り始めたこの年、久留米藩では飢饉が起こって危機を迎えたが、頼徸は之に対して領民を救う為、救済金や救済米を施した。 更に広く優れた意見を求めるため、徳川吉宗にならって目安箱を設置し、庶民の娯楽として猿楽の興行等も奨励した。
当時、九州では各藩で飢饉が起こり、それによって百姓一揆が頻発していたが、久留米藩でも頼徸が善政を敷いたにも関わらず、発生してしまった。
頼徸は之に対して一揆側の首謀者全員、更に藩の責任者である家老の稲次因幡や有馬石見らを処刑するという厳しさを見せた しかし後に、之等を慰める為に五穀神社祭礼を行なっている。
又、頼徸は有職故実や様々な法令に対して知識が深い教養人であった為、幕府からもその才能を認められて江戸増上寺の御火消役に任じられると共に、官位も之までの歴代藩主より更に上である左少将に叙任される事となった。
しかも狩猟で将軍が仕留めた鶴を拝領する事ができるという「国鶴下賜」を三度も受けている。 之は徳川御三家や伊達氏、島津氏、前田氏等の大藩しか賜らないという厚遇であった為、有馬氏は頼徸の時代に大大名と肩を並べる厚遇を受ける事となったのである。
1-2). 学問藩主・頼徸 頼徸は有職故実や法令等の知識に優れていた事もわかる様に、学問にも長けていた。 特に頼徸が優れていたのは和算であった。
和算は江戸時代前期に関孝和によって成立したもので、当時は代数式、行列式、円に関する計算等がそれであった。
頼徸はその和算に対して深く興味を持ち、関流の教えを継ぐ山路主住に師事して之を学んだ 頼徸は、それまでは52桁しか算出されていなかった円周率を、更に30桁算出し、少数の計算まで成立させた。 明和6年(1769年)には豊田文景の偽名で『拾機算法』五巻を著した。 之は、関孝和の算法を自分自身でさらに研究し進めた物を纏めた物である。
1-3). 死後と評価:天明3年(1783年)~70歳で死去。 後を長男の有馬頼貴が継いだ。
頼徸の治世は54年の長きにわたったため、また頼徸自身が優れた藩主だった事もあって久留米藩の藩政は比較的安定化し、頼徸はその治績から、「久留米藩の吉宗」と賞賛されるに至った 尚、頼徸と同時期の新発田藩の溝口直温や松江藩の松平宗衍ら教養人と並んで、「風流三大名」と称されたのである。
先代:有馬則維 有馬氏(久留米藩7代)藩主 1729 - 1783 次代:有馬頼貴 "http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E9%A6%AC%E9%A0%BC%E3%82%86%E3%81%8D" より作成 カテゴリ: 摂津有馬氏 江戸の大名 外様大名 1714年生 1783年没
エジプトに端を発し、ギリシャをへて、何千年の歴史の中から成立して来た物です。
ところで、日本には和算という数学がありました。 之は、江戸時代の初期に始まったもので、幕末時代には、西洋数学のレベルに達していたというのです。
西洋では何千年も掛かって、大学者が研究してきた数学を日本では僅か300年足らずの期間に、それも町や村の庶民の間に根を下ろし、研究され、高度にに発達して来ているのです。
この江戸時代の数学が、どんなに一般庶民の物であったかは、各地の神社、仏閣に掲げられた算額から、良く分かります。 「算額」というのは、自分が解いた数学を、額に書いて神仏に掲げるもので、初めは「数学絵馬」といっていました。
額には問題、答え、解き方、幾何学図形、そして、先生と自分の名前等が書かれています。 例えば、京都の八坂神社にあるものは、当時の数学者、長谷川(りんかん)が掲げた物で、現代数学でいえば、七十次方程式で無ければ解けない様な問題らしいです。
岩手県の竜泉寺に掲げられた物は三七桁という大きな数の、二六乗根を出せという物で、横二メ-トルもある額一杯に計算がしてあるらしいです。
京都の安井金比羅宮に在る物は、現代数学の等比級数に当る物で、どうやら子供が習った物らしく、四季の数学という題で、分りやすく出題してあります。
日本中には、この様な算額が数多く残っているそうです。 この算額の名前を見ると鳥居の政松とか、樽尾の平吉とか、(そまし=きこり)の文蔵等という素朴な名前が多いのです 今は西洋数学の押されて、影の薄く成った和算ですが、江戸時代には実に多くの一般庶民が勉強し、しかも、其れが高いレベルに達していたかを再認識して頂きたいです!
和算とは日本独自に発達した数学である。 江戸時代には大いに発展し、西洋とは独自に積分の発見等がなされた。
1). 歴史:和算は中国の数学から多大な影響を受けている。
中国では「九章算術」と呼ばれる数学書が漢代には登場していた。
「九章算術」では面積の計算法、比例、反比例、ピタゴラスの定理などが紹介されている。
7世紀以降、遣隋使、遣唐使の派遣などにより、中国の文化が日本に次々と流入する様になる。
中国の律令制を元に作られた大宝律令(702年)では、算博士と呼ばれる官職が定められていた。
算博士は「九章算術」を始めとした中国の算書の知識が要求された。
万葉集(成立は759年以前と見られる)には次の様な歌がみられる。
若草乃 新手枕乎 巻始而 夜哉将間 二八十一不在國 (わかくさの にひたまくらを まきそめて よをやへだてる にくくあらなくに 巻十一 2542番) 「くく」という読みに「八十一」という漢字が当てられており、既に九九が日本で知られていた事がわかる。
江戸時代に和算は大いに発展した。 このきっかけになったのが1627年(寛永4年)、吉田光由によって書かれた塵劫記(じんこうき)である。
明代の算術書『算法統宗』(さんぽうとうそう)を模範とした物で、そろばんの使用法や測量法といった実用数学に加え、「継子立て」や「ねずみ算」といった数学遊戯が紹介されている。
『塵劫記』はベストセラーとなり、初等数学の標準的教科書として江戸時代を通じて用いられた。
江戸時代には、整数論、解析学といった高等数学も関孝和などの和算家によって発展した。
主に師弟関係で継承されてきた為、あまり一般に知られる事はなかったが積分の発見、整数論等の分野では西洋での発見と同時期、分野によってはより早く発見されていたものもある。
関孝和は1683年の『解伏題之法』にて行列式理論を発見している。
又、円に接する正多角形の辺の長さを用い、円周率を11桁まで得ている。
関の弟子である建部賢弘は級数展開を用いる事で、42桁まで正しい値を計算した。
安島直円(1739年-1798年)、和田寧(1787年-1840年)らによって和算の積分術は発展した。
之により、複雑な図形の面積や、立体の体積が計算できる様になった。
和算における多くの成果は各流派の中で秘伝とされ続けてきたが、関流算術を学んだ久留米藩主 有馬頼徸(1714年-1783年)は、1769年に出版した著書『拾璣算法』において関流の秘伝を公開し、和算文化の向上に大きな貢献を果たした。
明治時代に入り、西洋の数学が浸透するのに伴い、和算は衰退してしまった。
2). 算木とそろばん 算木を用いた数の表記和算で用いられる道具として、算木とそろばんが挙げられる。 いずれも『算法統宗』に使用法が紹介されている。
又、『塵劫記』にはそろばんの使用法が記載されている。 そろばんは会計等、広く用いられたのに対し、算木は専ら和算家によって使用され、天元術と呼ばれる解法によって代数方程式などの計算に用いられた。
天元術では、算盤(さんばん)と呼ばれる表と算木を用いた。
算盤とは碁盤の目状になった表であり、各列が一、十、百、千、万といった桁を表し、各行は商(答え)、実(定数項)、方(x)、廉(x2)、隅(x3)、三乗(x4)...と代数方程式の解及び各係数を表した。
各升目に置かれた算木を並べ替える事で、代数方程式を解いていった。 関孝和は算木を用いずに筆算により代数方程式を解く計算法を編み出した。
この方法は後に点竄術(てんざんじゅつ)と呼ばれ、和算の中心的な手法となった。
3).算額(さんがく)とは、額や絵馬に数学の問題や解法を記して、神社や仏閣に奉納した物である。 平面図形に関する問題の算額が多い。
数学者のみならず、一般の数学愛好家も数多く奉納している。
算額は、数学の問題が解けた事を神仏に感謝し、益々勉学に励む事を祈願して奉納されたと言われる。
やがて、人の集まる神社仏閣を数学の発表の場として、難問や、問題だけを書いて解答を付けずに奉納するものも現れ、その問題を見て解答を算額にしてまた奉納するといった事も行われた。
算額奉納の習慣は世界に例を見ず、日本独自の文化である。
明治時代になり鎖国が解けると、日本には洋算が導入される様になったが、この導入を容易にした事にも算額を奉納する風習が貢献した。
1997年に行われた調査結果によると、日本全国に975面の算額が現存している(『例題で知る日本の数学と算額』森北出版株式会社による)。
之等現存する算額で最も古いものは栃木県佐野市にある星宮神社にあり、1657年に掲げられたとされる。 4).和算の発展に関わった人物:毛利重能、吉田光由、関孝和 ★中根元圭:和算家。
「律原発揮(元禄5年、1692年)」において1オクターブを12乗根に開き十二平均律を作る方法を発表した。 ★建部賢弘:(たけべ かたひろ、寛文4年(1664年)~ 元文4年(1739年))は、江戸時代中期の数学者。
父は旗本の建部直恒。号を不休。 幼少から関孝和の門人となり、1716年(享保元年)将軍徳川吉宗の信頼を得、「日本総図」を作る。
関孝和の後継者という存在になり、その解説書を多数著作する 孝和の兄の賢明ら3人で著作した「大成算経」20巻は当時の和算学を集大成した労作である。 又、天文・暦学の業績も残した。
・著書:『日本総図』、『大成算経』 "http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%BA%E9%83%A8%E8%B3%A2%E5%BC%98" より作成 カテゴリ: 1664年生 1739年没 17世紀の数学者 18世紀の数学者 日本の数学者 江戸時代の人物 5). 関連項目:算法少女、絵馬
6). 参考文献 『例題で知る日本の数学と算額』深川英俊著 森北出版株式会社 ISBN 4-627-01641-7 『「数」の日本史』伊達宗行著 日本経済新聞社 ISBN 4-532-16419-2 『和算史年表』佐藤健一・小寺裕著 東洋書店
ISBN 4-885-95378-2 "http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E7%AE%97" より作成 カテゴリ: 算術 数学史 数学に関する記事 ●毛利 重能(もうり しげよし、生没年不詳)は江戸時代前期に活躍した和算家で、現在知られている中では最も古い。
通称・勘兵衛、官位・出羽守。 当初、豊臣秀吉に仕えて出羽守となり、明に留学して算術を学ぶ。
大坂の陣では同姓の誼で毛利勝永の部隊にいたとある。著書『割算書』(通称)は、『算用記』と共に江戸時代初期を代表する貴重な和算書である。 『割算書』の奥付には、「摂津国武庫郡瓦林から京都へ移り住み、“割算の天下一”という名(割算天下一指南の看板)の下に塾を開いた」と書かれている。
後の代表的な和算家吉田光由や今村知商、あるいは関孝和の師匠でもあった高原吉種などの弟子達を育てた事でも有名である。
門弟は数百人にも上ったとある。 この吉田光由・今村知商・高原吉種は俗に「毛利の三子」と呼ばれた高弟である。 熊野神社内に昭和47年に「毛利重能顕彰碑」が建立され、その傍らに昭和48年建立の「算学神社」がある。
この項目「毛利重能」は、数学に関連した書きかけの項目です。
加筆・訂正などをして下さる協力者を求めています。 (ポータル 数学/ウィキプロジェクト 数学) "http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E9%87%8D%E8%83%BD" より作成 カテゴリ: 日本の数学者 16世紀の数学者 17世紀の数学者 数学に関する記事 数学関連のスタブ項目 ●吉田 光由(よしだ みつよし、慶長3年(1598年)~ 寛文12年11月21日(1673年1月8日))は、江戸時代前期の和算家。
京都の豪商角倉家の一族。久庵と号す。 角倉了以は外祖父にあたる。
初の和算家毛利重能に師事した。 後一族の角倉素庵のもとで中国の数学書『算法統宗』の研究を行い、それを元に1628年(寛永5年)、著書『塵劫記』を出版した。 同書は絵を多用し基礎から応用まで容易に学習出来る様に書かれた数学入門の模範と評価された。
晩年には失明し、寛文12年75歳で没した。 "http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E5%85%89%E7%94%B1" より作成 カテゴリ: 江戸時代の人物 日本の数学者 16世紀の数学者 17世紀の数学者 数学に関する記事 1598年生 1673年没 ●関 孝和(せき たかかず、寛永17年(1642年)3月 - 宝永5年10月24日(1708年12月5日))は、江戸時代の和算家(数学者)である。
本姓内山氏、通称新助。字は子豹、自由亭と号した。 ★ 生涯と業績 関孝和は上野国(群馬県)の藤岡市で幕臣の家に生まれ、幼少時から、吉田光由の『塵劫記』を独学で学び、後に、そろばんや算木から抜け出し、独自の和算の世界を創始する。
甲斐国甲府藩(山梨県甲府市)の徳川綱重、徳川綱豊(徳川家宣)に仕え、綱豊が6代将軍となると直参として江戸詰めととなり、西の丸御納戸組頭に任じられた。 延宝2年(1674年)、『発微算法』を著し、筆算による代数の計算法(点竄術-てんざんじゅつ)を発明して、和算が高等数学として発展するための基礎をつくった。 他には円周率を正131072角形を使って、小数第11位までを求めている。
ニュートン・ライプニッツとほぼ同時期に微分・積分の一歩手前までたどり着いたとして知られるが、和算が自然科学から独立して発展してしまった為にそれ以上の発展を見られなかったと言われるが、ニュートンとほぼ同時期に微分・積分の一歩手前まで辿りついていたという意見には、色々な議論が交わされている。 数学者の藤原正彦氏は辿りついていたと主張している。
関は、ヨーロッパでライプニッツが行列式の概念に到達する以前に独自に同じ概念を研究していた(天和3年(1683年))。
又ヤコブ・ベルヌーイに先駆けてベルヌーイ数を発見していた事も知られている。 関はそれ以前の中国、日本の数学を吸収した上で、そのレベルを飛躍的に向上させ、後の和算の伝統を作った。 宝永5年10月24日(1708年12月5日)、病に倒れて死去。 東京都新宿区の浄輪寺に葬られている。
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E5%AD%9D%E5%92%8C" より作成 カテゴリ: 日本の数学者 数学に関する記事 17世紀の数学者 18世紀の数学者 1642年生 1708年没 ●有馬 頼徸(ありま よりゆき、1714年12月31日(正徳4年11月25日)~1783年12月16日(天明3年11月23日))は、筑後国久留米藩の第7代藩主。第6代藩主・有馬則維の五男。 母は小林氏。正室は京極宮家仁親王の娘。 官位は従四位下、左少将、玄蕃頭、中務大輔。 1). 生涯 1-1). 藩主として 享保14年(1729年)、16歳で家督を継いで藩主となる。
しかし若年の為、元文2年(1737年)までは藩政は重臣によって行なわれていた。
頼徸が政務を執り始めたこの年、久留米藩では飢饉が起こって危機を迎えたが、頼徸は之に対して領民を救う為、救済金や救済米を施した。 更に広く優れた意見を求めるため、徳川吉宗にならって目安箱を設置し、庶民の娯楽として猿楽の興行等も奨励した。
当時、九州では各藩で飢饉が起こり、それによって百姓一揆が頻発していたが、久留米藩でも頼徸が善政を敷いたにも関わらず、発生してしまった。
頼徸は之に対して一揆側の首謀者全員、更に藩の責任者である家老の稲次因幡や有馬石見らを処刑するという厳しさを見せた しかし後に、之等を慰める為に五穀神社祭礼を行なっている。
又、頼徸は有職故実や様々な法令に対して知識が深い教養人であった為、幕府からもその才能を認められて江戸増上寺の御火消役に任じられると共に、官位も之までの歴代藩主より更に上である左少将に叙任される事となった。
しかも狩猟で将軍が仕留めた鶴を拝領する事ができるという「国鶴下賜」を三度も受けている。 之は徳川御三家や伊達氏、島津氏、前田氏等の大藩しか賜らないという厚遇であった為、有馬氏は頼徸の時代に大大名と肩を並べる厚遇を受ける事となったのである。
1-2). 学問藩主・頼徸 頼徸は有職故実や法令等の知識に優れていた事もわかる様に、学問にも長けていた。 特に頼徸が優れていたのは和算であった。
和算は江戸時代前期に関孝和によって成立したもので、当時は代数式、行列式、円に関する計算等がそれであった。
頼徸はその和算に対して深く興味を持ち、関流の教えを継ぐ山路主住に師事して之を学んだ 頼徸は、それまでは52桁しか算出されていなかった円周率を、更に30桁算出し、少数の計算まで成立させた。 明和6年(1769年)には豊田文景の偽名で『拾機算法』五巻を著した。 之は、関孝和の算法を自分自身でさらに研究し進めた物を纏めた物である。
1-3). 死後と評価:天明3年(1783年)~70歳で死去。 後を長男の有馬頼貴が継いだ。
頼徸の治世は54年の長きにわたったため、また頼徸自身が優れた藩主だった事もあって久留米藩の藩政は比較的安定化し、頼徸はその治績から、「久留米藩の吉宗」と賞賛されるに至った 尚、頼徸と同時期の新発田藩の溝口直温や松江藩の松平宗衍ら教養人と並んで、「風流三大名」と称されたのである。
先代:有馬則維 有馬氏(久留米藩7代)藩主 1729 - 1783 次代:有馬頼貴 "http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E9%A6%AC%E9%A0%BC%E3%82%86%E3%81%8D" より作成 カテゴリ: 摂津有馬氏 江戸の大名 外様大名 1714年生 1783年没
2007年7月14日土曜日
日本と言う国名の由来は?
日本の事を指す言葉に、古くは「大八州」(おおやしま)「秋津島」(あきつしま)「豊葦原瑞穂国」(とよあしはらのみずほのくに)「葦原中国」(あしはらなかつくに)「大和」(やまと)などがあり、中国では「倭」(わ)と呼んでいました。
それが「日本」と定められたのは、大宝元年(701年)に制定された大宝律令によってです。
大宝律令は、日本最古の完成された成文法で(それ以前にも近江令、飛鳥浄御原令等の試作品はあったらしいです。)
日本と言う国は、生まれた時から「日本」であったと言って良いでしょう。
大宝律令の頃は、「日本」と書いて「やまと」とか「ひのもと」と読んでいましたが、奈良時代になると漢字の知識が広がり、訓ではなく音読みする様に成りました。
「にほむ」と発音していた様です。
之が時代が下がって、室町時代になると、東国の発音で読まれる様になり、{にほん」或いは「にっぽん」と成ったのです 現在は、{にほん」でも「にっぽん」でもどちらの読み方でも構いませんが、昭和九年の文部省臨時国語調査会では「にっぽん」に統一され一時期この呼び方が強制された事が在ります
この時、東京の日本橋と「日本書紀」だけは例外に「にほん」と読んだと言いますから、考慮すると随分可笑しな話です。 英語のジャパンと言う呼び名は、マルコポ―ロの「東方見聞録」に載っている「ジパング」(黄金の島)からきています。 日本国(にっぽんこく・にほんこく)、通称日本は、ユーラシア大陸東端の日本列島を主な領土とする東アジアの島国である。
1). 概要:日本は、第二次世界大戦後に成立した日本国憲法を最高規範として、司法・行政・立法の三権が分立する(三権分立)法治国家である。
日本の国家理念ともいうべき立憲主義は、国民主権、それに基づく基本的人権の尊重、平和主義、の三つを基調としている。
日本国の国家元首については、日本国憲法で「天皇を日本国と日本国民統合の象徴とする」と表記されている為、元首に対して法的に明確な定めがない。 (国内の慣例、海外等の対応から天皇を事実上の元首と見る向きがあるが、論争がある) 日本の歴史は天皇が国家権威の中心(君主)であり続け
[1]、 世界的にも長い王朝と歴史[2]を包含する皇室制度をもった国家
[3]である。 現行憲法は天皇の国家象徴を規定しており、現在の日本は立憲君主制である[4]。
日本の経済力はGDP(MER: ドル時価換算)で世界第2位に位置している。
典型的な工業国である。 日本は、1975年の第一回先進国首脳会議からG8(当時はG6)の一翼を担い、世界経済に強い影響力をもち、国際社会における経済支援等において担う役割と責任は非常に大きい。
民族的には日本人(日本民族、大和民族、和人)が殆んどだが、日本国内に存在する他の少数民族としては、以下の物が挙げられる。 歴史上、北海道・樺太を中心に居住しているアイヌ民族・ウィルタ民族・ニヴフ民族。 旧琉球王国領域の住民を、琉球民族と捕える考え方もある。
19世紀の小笠原諸島への移民子孫で、ヨーロッパ系アメリカ人とハワイ人にルーツを持つとされる欧米系島民も日本国籍を取得して居住している。
かつて朝鮮・台湾が日本領であった時代に、日本国内に移住した人々の子孫である在日韓国・朝鮮・台湾人。
その他、ブラジル人等のラテンアメリカ人、漢族を始めとする中国人、フィリピン人やマレー人等の東南アジア人、インド人、スラブ人、アメリカ人、ヨーロッパ人、アフリカ人、アラブ人等、結婚の国際化等により、少人数ではある物の多くの民族が在住している。
東アジア出身者を中心に、日本以外の国籍の人々が帰化する例も見られる。 又日本を離れて外国に居住した日系人等も南北アメリカを中心に見られる。 国籍を取得していない者も多い。
使用言語はほぼ完全に日本語であり、慣習法として日本語が公用語になっている。
アイヌ民族のアイヌ語は話者が少なく、耳にする機会が少ない 旧琉球王国領域の琉球方言を、別言語として区別し、「琉球語」とする考え方もある。
地勢的には、島国であり、海上交易・漁業共に盛んな海洋国家でもあり、地政学上は典型的なシーパワーに分類される。
内海を含む領海、排他的経済水域等の水域面積は約447万平方キロメートルであり、之は国土面積の11.7倍である[5]。
位置はユーラシア大陸の東端に位置する台湾の東方にある与那国島から、サハリンの南方にある北海道までを領土としており、北から時計回りに、オホーツク海、日本海(韓国名:東海)を挟みロシア連邦、太平洋南側でアメリカ合衆国、北西フィリピン海海上でフィリピン、東シナ海をはさみ中華人民共和国、中華民国(日本国は承認していない)、日本海を挟み大韓民国、及び朝鮮民主主義人民共和国(日本国は承認していない)の計7国家・地域と接する。
又、南方にパラオ、小笠原諸島の延長線上にミクロネシア(北マリアナ諸島)がある。 太平洋をはさんでアメリカ大陸がある。
2).国名:国号(正式名称)には通常「日本国」が用いられる 憲法の題名として「大日本帝国憲法」及び「日本国憲法」の表記があるが、条文で「国号を日本国と称する」等と直接かつ明確に規定した法令はない。
「日本」の国号が成立する以前は対外的には「倭国」又は「倭」と書かれ、国内的には「やまと」と読まれた。
更に古くは実に多様な名があったらしく、「大和」、「葦原中国」又は「豊葦原千五百秋瑞穂国」、「中国」、「豊葦原中津国」、「豊秋津島」、「大八洲」、「磯輪上秀真国」、「細矛千足国」、「玉垣内津国」、等さらに多くの別名があった。
漢文由来の異称も、中国大陸の扶桑蓬莱伝説に準えた「扶桑」、「蓬莱」という呼び方を始めとして、「東海姫氏国」、「阿母郷」、「日下」、その他多様である。
対外的にも最も一般的な通称だった「倭国」は、7世紀頃に「日本」と改名されたと考える説が有力である(異説もある)が、当時は国内での読み方は「倭」でも「日本」でも、共に「やまと」であり、国内的には表記の変更にすぎなかったと考えられる。
(「日本」という名詞は、正式国名として採用される以前には、「扶桑」、「蓬莱」、「東海姫氏国」、「阿母郷」、「日下」、等と同様の語だった) 「ひのもと」という読み方は後に起こった。
「皇朝」は元々は中原王朝の天子の王朝をさす漢語であるが、日本では天皇王朝をさす漢文的表現として使われ、国学者は之を「すめみかど」又は「すめらみかど」等と訓読した。
「神國」、「皇國」、「神州」、「天朝」、「天子國」(國は国の旧字体)などは雅語(美称)としての「皇朝」の言い替えであって、国名・国号という様な物ではない。 「本朝」は「我が国」という様な意味であって之も国名ではない。
江戸時代の儒学者などは日本をさして「中華」、「中原」、「中朝」、「中域」、「中國」等と書く事があったが之も国名ではない。 「大日本」と大とつけるのは、国名の前に大・皇・有・聖等の字をつけて天子の王朝である事を示す中国の習慣からきている(「有漢、皇魏、聖晋、大宋、大清、大韓」等)。 しかし、「おおやまと」と読む場合はそれとは関係ない古称の一つである。 「帝國」は、元は「神國、皇國、神州」と同様であったが、近代以後は"empire"の訳語として使われる。
古代においては王国を束ねる盟主の意味があり、天子は一人であるとする中原王朝の反発を招いた他、朝鮮半島の王国も之に抗議した。
しかし本来は「山城国」等、日本六十六州の帝であり、主に中原王朝からの自立の意図でも用いられた。
「帝国主義」の語はカール・マルクスの亡命先である19世紀の覇権国家・大英帝国の意味であり、日本をその様な超大国と解するのは誤解を伴う部分もある。
明治時代から第二次世界大戦後までの国号は様々に変遷しており、従来の日本、日本国のほか大日本帝國、大日本國、日本帝國等も用いられ、端的に表す場合は単に「帝國」とも略された 戦後は主に「日本」或いは「日本国」でほぼ統一されている。
但し日本公式の印鑑である「国璽」は明治時代に作製された「大日本國璽」が使用され続けている。
日本政府は正式な読み方を明確に定めていない。
通商や交流の点で海外と関連のある紙幣、切手、スポーツの国際試合のユニフォーム等には「NIPPON」と描かれている事がある。
之は一説によると、ラテン語圏ではH音が発音されない為「ニオン」と呼ばれてしまうからという理由であるという。
之には英語の語感が"nip on"に通じ甚だ印象が悪い事から「NIHON」にすべしとの意見もあるが、外国語の事情に併せて自称を変更する事には賛否両論があろう。
現代では、スポーツの応援等元気をだす時、威勢をあげる時は「にっぽん」、詩的で優しく穏やかな文脈では「にほん」という様に、語感に応じて使い分けられる面もある。
「日本」の最初の用例は確実な物は決めがたい。
『日本書紀』は「倭」を遡って「日本」に書き改めているからである。
例えば『日本書紀』大化元年七月の条によって645年7月に高句麗や百済の使者に示した詔の「明神御宇日本天皇(あきつみかみとあめのしたしらすやまとのすめらみこと)」という語が最初とする見解もあるが之にも疑問がある。
語義としての「日本」は、有名な『隋書』大業三年(607年)の「日出づる処の天子」が知られるが、この頃はまだ「日本」とはされていなかった事が逆に証明される。
7世紀成立の中国の『旧唐書』には日本人が倭国の名称を嫌い、国名を日本に改めたとある。
「日本」という国名が最初に公式に定められたのは、701年施行の『大宝律令』とされるが、条文法規に定められる以前、天武天皇の頃から使われてはいただろう。
(「天皇」号の使用と「日本」号の使用は軌を同じくするとみられている。
(異説もある)近年発掘された飛鳥池遺跡出土の天武六年(678年)銘の木簡から、この頃「天皇」号が既に使用されている事が分っている。) 又、734年には井真成の墓誌として中国大陸でも使用されている。
公式の英語表記は、Japan(ジャパン)略記としてはJPNが用いられる。
JAP(ジャップ)は、アメリカ英語では侮蔑的な意味があるので[6]、使用には注意が必要である。
(但しこの他の言語ではこの限りではない) 又、最近の英語表記ではNippon(ニッポン)が用いられる事が多い。
具体的にはUPU等によるローマ字表記(1965年以降)、日本郵政公社の切手や日本銀行券などでNippon表記を用いている。
尚、Nipponの先頭三文字で略したNIP(ニップ)は、JAPよりも強い侮蔑・差別の意味合いがあるので、使用するべきではないこの場合の略称はNPNとなる。
世界の多くの言語において日本を意味する固有名詞は、ジャパン(英:Japan)、チャパーン(愛:tSeapáin)、ヤーパン(独:Japan)、ジャポン(仏:Japon)、ハポン(西:Japón)、ジャッポーネ(伊:Giappone)、ヤポニヤ(波:Japonia)、ヤポーニヤ(露:Япония)、イープン(泰:ญี่ปุ่น)、等、ある時期にある地域の中国語で「日本国」を発音した物(ジーパングォ)を写し取ったジパング (Xipangu) 或いはジャパング (Japangu) を語源とするのが定説である。
中国や朝鮮等の漢字文化の影響の強い地域においては、リーベン(中:Rìbĕn; 日本)、イルボン(朝:일본; 日本)、ニャッバーン(越:Nhật Bản; 日本)[7]等、その儘「日本」を自国の発音で読むというやり方をしている。
尚、「日出ずる処」を各国語に訳した名詞句も「日本国」を示す物として使用されている。 例:(英語)"(the) land of (the) rising Sun"、(フランス語)"le pays du soleil levant"、(スペイン語)"El pais del sol naciente"。 3).首都:詳細は日本の首都を参照 首都は東京[8]。
世界最大の都市圏でもある。 東京都を中心に神奈川県、埼玉県、千葉県などを含む都市圏人口は約3300万人。 東京都特別区の人口は約850万人である。
東京には、皇居の他、国家の最高機関国会、内閣、最高裁判所があり、政治・経済の中心地である。 4).歴史:詳細は日本の歴史を参照。
又アイヌと琉球地域に関して日本の領土になったのが明治以後である為それ以前の歴史には違いがあるので、各々の項を参照の事。
4-1). 建国年と皇紀 『日本書紀』には、辛酉年春正月庚辰朔(1月1日)にカムヤマトイワレヒコ(和風諡号「神日本磐余彦火火出見天皇」の仮名の音。
漢字の諡号は神武天皇)が即位したとあり、之を日本建国と位置づけているが、現代では歴史的事実を反映した物ではないとの説が有力である。
しかし、未だ史学者の間でも賛否両論があり、今日においても結論は出ていない[9]。
明治5年11月15日 (旧暦)(1872年12月15日)に、西暦紀元前660年が神武天皇即位紀元の皇紀元年とされ、明治6年(1873年)1月1日から使用された。
現代の日本では紀年法としてはグレゴリオ暦(西暦)若しくは元号が使われる事が多く、皇紀は殆んど使用されていないが、一部の現行法上においては現在も効力を有しており、法律文書等には記載されている。
(明治31年勅令第90号・閏年ニ関スル件) 尚、東北地方では、神武天皇に殺された長髄彦の兄安日彦が津軽に亡命した事をもって日本の建国としている。
(中尊寺文書、平泉雑記など) 4-2). 国号の成立から現在まで 「日本」という国号が成立したのは701年前後と推定される。
『隋書』、『旧唐書』、『新唐書』等に記された遣隋使の報告には「倭国と日本国は別の国であり、併合して日本国となった[10]」とあるが、これは一般には天武天皇が弘文天皇の近江朝廷を滅亡させた壬申の乱を表していると解釈されている。
平安時代の貴族の会話[要出典]の中で、日本国が中国に対して「日の本」即ち東方にある事をもって日本としたと説明されており、畿内においては東方の飛鳥地方を日本(ひのもと)と呼び、更には朝廷から東方にある関東地方や東北地方を長らく「日本」と呼んでいた事からも、この説が妥当であるとする見解がある。
但し、景行期に東海地方以東の蝦夷の国を「日高見国」と呼んでいた事から反論も根強く、日本国号の起源について未だに定説は見られない。
朝廷は8世紀から拡大策を強め、東北の蝦夷や九州の隼人等を服従させる事により、徐々に拡大を続けた。
之以後の主な対外戦争には、白村江の戦い、刀伊の入寇、元の蒙古襲来、応永の外寇、文禄・慶長の役等がある。
この間に「日本」と呼ばれる地理的領域は北上し、日本は東北沿岸から津軽、更には北海道東部のアイヌ部族の呼称として移動していった。
又モンゴル帝国において、ようやく大和朝廷の対外的呼称が「日本」に固定される様になり、権力者層に次第に日本意識・日本人意識が貫かれる様になった。
18世紀になると、シャクシャインの乱やロシア帝国との接触で北方への関心が強まり、アイヌ及びロシアへの他者意識として日本観・日本人観が江戸の庶民に定着していった。
之に応じて日本の指す領域は南下し、アイヌ居住地である蝦夷ガ島(北海道)以南が日本と意識される様になった。
19世紀になるとアメリカ合衆国始めヨーロッパ各国への他者意識として日本観・日本人観がいよいよ定着し、現代の日本観・日本人観にほぼ一致する様になった。
19世紀半ば以降、欧米列強の国家形態に触発される形で、天皇を中心とした近代国家を創出しようという試みが起こり、朝廷、幕府、藩によって分割統治されていた時代が終焉、近代的な意味での「日本国」が成立した。
明治維新と呼ばれる近代化政策が実行され、1871年の廃藩置県と翌1872年の琉球処分を通じて、ほぼ現在の領土が確定した。更に大日本帝国憲法を日本人自身の手で書き上げ、1889年に施行され、翌1890年に二院制からなる議会政治を作り上げた。 その後日清戦争と日露戦争に勝利した。
20世紀前半には台湾や朝鮮半島を併合した。
第一次世界大戦では連合国側として参戦、南洋諸島の委任統治を行った。
大戦後の自由な空気の中で、様々な政治的改革も試みられ、普通選挙の実施、政党内閣の慣例化など大正デモクラシーと呼ばれる政治運動が起こった。
1930年代になると社会の動揺から、軍部の発言力が増大し、満州事変を通じて事実上の傀儡政権として満州国(中国東北部)が建国されると、大陸との摩擦が深まり、ついには日中戦争へと発展した。
日本軍は東南アジアのほぼ全域にまで進出し、外交においては既に欧州において始まっていた第二次世界大戦の枢軸国側と協調した。
結果米国を中心とする連合国と決定的に対立、太平洋戦争(閣議決定では、支那事変(日中戦争)を含め対米英戦争を大東亜戦争と呼称すると決定した)へと発展した。
1945年に連合国のポツダム宣言を受諾。 無条件降伏を受け入れ第二次世界大戦は日本を始めとする枢軸国の敗北で終結した。
戦場となった地域の多くでは多数の民間人が犠牲となり、日本の国土も首都東京を始め空襲により焦土と化した。
又、この際、広島と長崎に原子爆弾が使用されている。
敗れた日本は、それまで拡大した領土の大半を失い、アメリカ合衆国を中心とする連合国軍の占領下に置かれた。
文字通り各国の総力戦となりこの戦争の遂行過程で様々な戦争犯罪があったとされ、現在も世界中で様々な議論を呼んでいる (日本が加害者とされる者は「日本の戦争犯罪」、被害を受けた者は「戦争犯罪」等の項を参照) 第二次世界大戦後の日本は、軍国主義の否定によって再出発した。
その拠り所が日本国憲法である。 日本国憲法は1946年11月3日に大日本帝国憲法を改正する形で連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の元に公布され、1947年5月3日施行された。
日本国憲法では、天皇を国の統合の象徴とする事や主権が国民にある立憲民主制国家として再生させる事及び、紛争の解決手段としての戦力の保持及び交戦権を放棄する事等が示され、国号も日本国と改めた。
・1950年に隣国朝鮮半島で、朝鮮戦争が勃発した。 GHQの指示により、警察予備隊(後の自衛隊)が設立され、事実上の再軍備の道を辿った。
・1951年にサンフランシスコ平和条約を締結し、日本と連合国は講和した。
・1952年4月28日、日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)の発効により占領は終了し、独立を回復した独立回復後の日本はその基本理念として一切の軍国主義を否定し、アメリカ合衆国とは同盟関係を結んだ。
・1955年に、保守政党である日本民主党と自由党が合同し55年体制のもとで長期安定政権を確立した。
その後、日本は高度経済成長を迎え、経済は驚異的な勢いで発展した。 東京オリンピックや日本万国博覧会の開催は、戦後の日本が国際社会に復帰する事の象徴にもなった。
・1968年、1972年には日本の領土とされながらも、施政権を喪失していた小笠原諸島と沖縄の施政権が米国から返還された。
現在では、発展途上国のための支援ODAなどを行い、世界の平和や相互理解に一定の役割を果たすまでになった。
近年は先進国として国際紛争解決の為に国連平和維持軍の一員として、日本が軍隊派遣をするかどうかが議論の対象となっている。
しかし現在の日本国憲法下では軍事力の放棄が記されている事等の為、自衛隊の派遣については日本国内で賛否が分かれている。 現在は憲法改正の動き等も見られ、活発な議論が行われている ・
1999年8月13日に国旗及び国歌に関する法律(通称:国旗・国歌法)で、国旗は日章旗(通称:日の丸)、国歌は君が代と定められた。 4-3).
今後の課題 数々の異例の大躍進に支えられて現在の地位を確立した日本も、問題を抱えていない訳ではない。 急速に進む高齢化と出生率の低下は、可也りの部分を国民の技術に依存してきた国力を削ぎかねないとの意見がある。
又、2007年に各自治体の財源を襲うと言われている「団塊の世代」の大量退職に伴う退職金の支給問題や、若年層を中心に広がる所得格差、又依然として低いレベルに留まっている国民全体のコンピューターのソフトウェア技術に対する分不相応の理解度は、既に各所で問題を引き起こしつつあるとされており、インドや中国の後塵を拝しつつあるとも言われる。
5).日本民族、日本の民族問題、及び 日本の外国人も参照 日本人の起源は、いわゆる縄文人、弥生人を基調とし、古代には中華世界から「倭人」と呼ばれた人々が中心となっているとされているが、日本人の起源そのものについては諸説あり、定かではない。
自称としては「和人」、或いは近代的民族意識の下では「大和民族」とも言う。
古代からの天皇を頂点とする近畿地方の朝廷と、中世以降における天皇を支配の正統原理として後ろ盾とする武家政権との、二重構造で成立していた中央政権の支配下に入った地域の住民が、固有の日本人とされる。
中世以降、沖縄(琉球)に成立し南西諸島の大半を支配下に置いた琉球王国、及び北海道・千島列島・樺太南部(蝦夷地)に居住したアイヌ(ウタリ)については、其々「南の日本」、「北の日本」とも称される。
之等の地域に住む人々は、弥生時代以降、「中の日本(主要な3島及びその周辺島嶼を指す)」とはやや異なる歴史を歩んだ経緯があり、固有の民族性を発達させた。
ただ、元来、鎖国基調にあった、中の日本に対し、琉球は南方で、アイヌは北方で其々大陸勢力との接触・交流を担っていたという構造が背景にあり、中の日本は限られた窓口を通じての大陸勢力との直接接触を除くと、琉球、アイヌを通じて間接的に大陸勢力と接触していた側面が色濃い。
尚アイヌと共に樺太にいたウィルタ、ニヴフは、樺太南部へのソビエト侵攻と占領後、北海道や本州へ移住した。 今でもロシアに対して樺太南部の返還を求める声も僅かながらある。
又、小笠原諸島には19世紀初頭ハワイから植民団が入植し、ヨーロッパ系アメリカ人やハワイ人による小規模なコロニーを形成したが、明治維新後日本領有が確定し、ヨーロッパ系、ハワイ系住民は順次日本国籍を取得し、日本人社会に溶け込んでいった。
アイヌ人は現在でも民族的・文化的独自性を保持し、二風谷ダム訴訟判決でも日本における先住性が確認された。 又アイヌ文化振興法が制定され、アイヌ語やアイヌ文化の保持・発展に国も積極的な支援を行う事となり、アイヌ語話者も少しずつ増えてきている。
又、明治維新以降、20世紀に入り、伝統的に大陸勢力との繋がりが深い朝鮮半島や台湾を併合し、更に軍事的、政治的、経済的に激しく中国に食い込んでいった為、之等の地域の出身者も、日本国籍取得者(帰化者)、外国人登録者(永住者)の双方の形態で、比較的多数の住民として抱えていく事になった。
現在総人口の約1.5%が外国人登録者である。 韓国籍、朝鮮籍、中国籍、台湾籍、ブラジル国籍、フィリピン国籍等が多く、韓国・朝鮮籍を除けば増加傾向にある。
韓国・朝鮮籍、及び中国籍については、戦前の旧日本領出身者及びその子孫が多く、最近では中国残留孤児や家族の永住帰国も多い。
又最近の外国籍増加の背景には、1990年の入管法改正でブラジル等に移民した日本人移民及び子孫の、日本での就労が自由化された事が大きい。
6). 日本の範囲 ・最東端:東京都南鳥島(北緯24度16分59秒・東経153度59分11秒) ロシア占領下で帰属が微妙な千島列島占守島小泊崎(北緯50度・東経155度)を最東端とする意見もある。
・最西端:沖縄県与那国島西崎(北緯24度26分58秒・東経122度56分01秒) 正式な「日本の最○端」のなかで唯一、公共交通機関で誰でも自由に訪れることができる場所である。
最南端:東京都沖ノ鳥島(北緯20度25分31秒・東経136度04分11秒) 人の住む最南端としては、沖縄県波照間島(北緯24度2分25秒・東経123度47分16秒) 最北端:北海道択捉島カモイワッカ岬(北緯45度33分28秒・東経148度45分14秒) 北方領土を除く最北端は、北海道稚内市弁天島(宗谷岬;北緯45度31分13秒・東経141度56分27秒) ロシア占領下で帰属が微妙な千島列島阿頼度島最北埼(北緯50度55分30秒・東経155度32分)を最北端とする意見もある。
do_decolink('diary_body')
それが「日本」と定められたのは、大宝元年(701年)に制定された大宝律令によってです。
大宝律令は、日本最古の完成された成文法で(それ以前にも近江令、飛鳥浄御原令等の試作品はあったらしいです。)
日本と言う国は、生まれた時から「日本」であったと言って良いでしょう。
大宝律令の頃は、「日本」と書いて「やまと」とか「ひのもと」と読んでいましたが、奈良時代になると漢字の知識が広がり、訓ではなく音読みする様に成りました。
「にほむ」と発音していた様です。
之が時代が下がって、室町時代になると、東国の発音で読まれる様になり、{にほん」或いは「にっぽん」と成ったのです 現在は、{にほん」でも「にっぽん」でもどちらの読み方でも構いませんが、昭和九年の文部省臨時国語調査会では「にっぽん」に統一され一時期この呼び方が強制された事が在ります
この時、東京の日本橋と「日本書紀」だけは例外に「にほん」と読んだと言いますから、考慮すると随分可笑しな話です。 英語のジャパンと言う呼び名は、マルコポ―ロの「東方見聞録」に載っている「ジパング」(黄金の島)からきています。 日本国(にっぽんこく・にほんこく)、通称日本は、ユーラシア大陸東端の日本列島を主な領土とする東アジアの島国である。
1). 概要:日本は、第二次世界大戦後に成立した日本国憲法を最高規範として、司法・行政・立法の三権が分立する(三権分立)法治国家である。
日本の国家理念ともいうべき立憲主義は、国民主権、それに基づく基本的人権の尊重、平和主義、の三つを基調としている。
日本国の国家元首については、日本国憲法で「天皇を日本国と日本国民統合の象徴とする」と表記されている為、元首に対して法的に明確な定めがない。 (国内の慣例、海外等の対応から天皇を事実上の元首と見る向きがあるが、論争がある) 日本の歴史は天皇が国家権威の中心(君主)であり続け
[1]、 世界的にも長い王朝と歴史[2]を包含する皇室制度をもった国家
[3]である。 現行憲法は天皇の国家象徴を規定しており、現在の日本は立憲君主制である[4]。
日本の経済力はGDP(MER: ドル時価換算)で世界第2位に位置している。
典型的な工業国である。 日本は、1975年の第一回先進国首脳会議からG8(当時はG6)の一翼を担い、世界経済に強い影響力をもち、国際社会における経済支援等において担う役割と責任は非常に大きい。
民族的には日本人(日本民族、大和民族、和人)が殆んどだが、日本国内に存在する他の少数民族としては、以下の物が挙げられる。 歴史上、北海道・樺太を中心に居住しているアイヌ民族・ウィルタ民族・ニヴフ民族。 旧琉球王国領域の住民を、琉球民族と捕える考え方もある。
19世紀の小笠原諸島への移民子孫で、ヨーロッパ系アメリカ人とハワイ人にルーツを持つとされる欧米系島民も日本国籍を取得して居住している。
かつて朝鮮・台湾が日本領であった時代に、日本国内に移住した人々の子孫である在日韓国・朝鮮・台湾人。
その他、ブラジル人等のラテンアメリカ人、漢族を始めとする中国人、フィリピン人やマレー人等の東南アジア人、インド人、スラブ人、アメリカ人、ヨーロッパ人、アフリカ人、アラブ人等、結婚の国際化等により、少人数ではある物の多くの民族が在住している。
東アジア出身者を中心に、日本以外の国籍の人々が帰化する例も見られる。 又日本を離れて外国に居住した日系人等も南北アメリカを中心に見られる。 国籍を取得していない者も多い。
使用言語はほぼ完全に日本語であり、慣習法として日本語が公用語になっている。
アイヌ民族のアイヌ語は話者が少なく、耳にする機会が少ない 旧琉球王国領域の琉球方言を、別言語として区別し、「琉球語」とする考え方もある。
地勢的には、島国であり、海上交易・漁業共に盛んな海洋国家でもあり、地政学上は典型的なシーパワーに分類される。
内海を含む領海、排他的経済水域等の水域面積は約447万平方キロメートルであり、之は国土面積の11.7倍である[5]。
位置はユーラシア大陸の東端に位置する台湾の東方にある与那国島から、サハリンの南方にある北海道までを領土としており、北から時計回りに、オホーツク海、日本海(韓国名:東海)を挟みロシア連邦、太平洋南側でアメリカ合衆国、北西フィリピン海海上でフィリピン、東シナ海をはさみ中華人民共和国、中華民国(日本国は承認していない)、日本海を挟み大韓民国、及び朝鮮民主主義人民共和国(日本国は承認していない)の計7国家・地域と接する。
又、南方にパラオ、小笠原諸島の延長線上にミクロネシア(北マリアナ諸島)がある。 太平洋をはさんでアメリカ大陸がある。
2).国名:国号(正式名称)には通常「日本国」が用いられる 憲法の題名として「大日本帝国憲法」及び「日本国憲法」の表記があるが、条文で「国号を日本国と称する」等と直接かつ明確に規定した法令はない。
「日本」の国号が成立する以前は対外的には「倭国」又は「倭」と書かれ、国内的には「やまと」と読まれた。
更に古くは実に多様な名があったらしく、「大和」、「葦原中国」又は「豊葦原千五百秋瑞穂国」、「中国」、「豊葦原中津国」、「豊秋津島」、「大八洲」、「磯輪上秀真国」、「細矛千足国」、「玉垣内津国」、等さらに多くの別名があった。
漢文由来の異称も、中国大陸の扶桑蓬莱伝説に準えた「扶桑」、「蓬莱」という呼び方を始めとして、「東海姫氏国」、「阿母郷」、「日下」、その他多様である。
対外的にも最も一般的な通称だった「倭国」は、7世紀頃に「日本」と改名されたと考える説が有力である(異説もある)が、当時は国内での読み方は「倭」でも「日本」でも、共に「やまと」であり、国内的には表記の変更にすぎなかったと考えられる。
(「日本」という名詞は、正式国名として採用される以前には、「扶桑」、「蓬莱」、「東海姫氏国」、「阿母郷」、「日下」、等と同様の語だった) 「ひのもと」という読み方は後に起こった。
「皇朝」は元々は中原王朝の天子の王朝をさす漢語であるが、日本では天皇王朝をさす漢文的表現として使われ、国学者は之を「すめみかど」又は「すめらみかど」等と訓読した。
「神國」、「皇國」、「神州」、「天朝」、「天子國」(國は国の旧字体)などは雅語(美称)としての「皇朝」の言い替えであって、国名・国号という様な物ではない。 「本朝」は「我が国」という様な意味であって之も国名ではない。
江戸時代の儒学者などは日本をさして「中華」、「中原」、「中朝」、「中域」、「中國」等と書く事があったが之も国名ではない。 「大日本」と大とつけるのは、国名の前に大・皇・有・聖等の字をつけて天子の王朝である事を示す中国の習慣からきている(「有漢、皇魏、聖晋、大宋、大清、大韓」等)。 しかし、「おおやまと」と読む場合はそれとは関係ない古称の一つである。 「帝國」は、元は「神國、皇國、神州」と同様であったが、近代以後は"empire"の訳語として使われる。
古代においては王国を束ねる盟主の意味があり、天子は一人であるとする中原王朝の反発を招いた他、朝鮮半島の王国も之に抗議した。
しかし本来は「山城国」等、日本六十六州の帝であり、主に中原王朝からの自立の意図でも用いられた。
「帝国主義」の語はカール・マルクスの亡命先である19世紀の覇権国家・大英帝国の意味であり、日本をその様な超大国と解するのは誤解を伴う部分もある。
明治時代から第二次世界大戦後までの国号は様々に変遷しており、従来の日本、日本国のほか大日本帝國、大日本國、日本帝國等も用いられ、端的に表す場合は単に「帝國」とも略された 戦後は主に「日本」或いは「日本国」でほぼ統一されている。
但し日本公式の印鑑である「国璽」は明治時代に作製された「大日本國璽」が使用され続けている。
日本政府は正式な読み方を明確に定めていない。
通商や交流の点で海外と関連のある紙幣、切手、スポーツの国際試合のユニフォーム等には「NIPPON」と描かれている事がある。
之は一説によると、ラテン語圏ではH音が発音されない為「ニオン」と呼ばれてしまうからという理由であるという。
之には英語の語感が"nip on"に通じ甚だ印象が悪い事から「NIHON」にすべしとの意見もあるが、外国語の事情に併せて自称を変更する事には賛否両論があろう。
現代では、スポーツの応援等元気をだす時、威勢をあげる時は「にっぽん」、詩的で優しく穏やかな文脈では「にほん」という様に、語感に応じて使い分けられる面もある。
「日本」の最初の用例は確実な物は決めがたい。
『日本書紀』は「倭」を遡って「日本」に書き改めているからである。
例えば『日本書紀』大化元年七月の条によって645年7月に高句麗や百済の使者に示した詔の「明神御宇日本天皇(あきつみかみとあめのしたしらすやまとのすめらみこと)」という語が最初とする見解もあるが之にも疑問がある。
語義としての「日本」は、有名な『隋書』大業三年(607年)の「日出づる処の天子」が知られるが、この頃はまだ「日本」とはされていなかった事が逆に証明される。
7世紀成立の中国の『旧唐書』には日本人が倭国の名称を嫌い、国名を日本に改めたとある。
「日本」という国名が最初に公式に定められたのは、701年施行の『大宝律令』とされるが、条文法規に定められる以前、天武天皇の頃から使われてはいただろう。
(「天皇」号の使用と「日本」号の使用は軌を同じくするとみられている。
(異説もある)近年発掘された飛鳥池遺跡出土の天武六年(678年)銘の木簡から、この頃「天皇」号が既に使用されている事が分っている。) 又、734年には井真成の墓誌として中国大陸でも使用されている。
公式の英語表記は、Japan(ジャパン)略記としてはJPNが用いられる。
JAP(ジャップ)は、アメリカ英語では侮蔑的な意味があるので[6]、使用には注意が必要である。
(但しこの他の言語ではこの限りではない) 又、最近の英語表記ではNippon(ニッポン)が用いられる事が多い。
具体的にはUPU等によるローマ字表記(1965年以降)、日本郵政公社の切手や日本銀行券などでNippon表記を用いている。
尚、Nipponの先頭三文字で略したNIP(ニップ)は、JAPよりも強い侮蔑・差別の意味合いがあるので、使用するべきではないこの場合の略称はNPNとなる。
世界の多くの言語において日本を意味する固有名詞は、ジャパン(英:Japan)、チャパーン(愛:tSeapáin)、ヤーパン(独:Japan)、ジャポン(仏:Japon)、ハポン(西:Japón)、ジャッポーネ(伊:Giappone)、ヤポニヤ(波:Japonia)、ヤポーニヤ(露:Япония)、イープン(泰:ญี่ปุ่น)、等、ある時期にある地域の中国語で「日本国」を発音した物(ジーパングォ)を写し取ったジパング (Xipangu) 或いはジャパング (Japangu) を語源とするのが定説である。
中国や朝鮮等の漢字文化の影響の強い地域においては、リーベン(中:Rìbĕn; 日本)、イルボン(朝:일본; 日本)、ニャッバーン(越:Nhật Bản; 日本)[7]等、その儘「日本」を自国の発音で読むというやり方をしている。
尚、「日出ずる処」を各国語に訳した名詞句も「日本国」を示す物として使用されている。 例:(英語)"(the) land of (the) rising Sun"、(フランス語)"le pays du soleil levant"、(スペイン語)"El pais del sol naciente"。 3).首都:詳細は日本の首都を参照 首都は東京[8]。
世界最大の都市圏でもある。 東京都を中心に神奈川県、埼玉県、千葉県などを含む都市圏人口は約3300万人。 東京都特別区の人口は約850万人である。
東京には、皇居の他、国家の最高機関国会、内閣、最高裁判所があり、政治・経済の中心地である。 4).歴史:詳細は日本の歴史を参照。
又アイヌと琉球地域に関して日本の領土になったのが明治以後である為それ以前の歴史には違いがあるので、各々の項を参照の事。
4-1). 建国年と皇紀 『日本書紀』には、辛酉年春正月庚辰朔(1月1日)にカムヤマトイワレヒコ(和風諡号「神日本磐余彦火火出見天皇」の仮名の音。
漢字の諡号は神武天皇)が即位したとあり、之を日本建国と位置づけているが、現代では歴史的事実を反映した物ではないとの説が有力である。
しかし、未だ史学者の間でも賛否両論があり、今日においても結論は出ていない[9]。
明治5年11月15日 (旧暦)(1872年12月15日)に、西暦紀元前660年が神武天皇即位紀元の皇紀元年とされ、明治6年(1873年)1月1日から使用された。
現代の日本では紀年法としてはグレゴリオ暦(西暦)若しくは元号が使われる事が多く、皇紀は殆んど使用されていないが、一部の現行法上においては現在も効力を有しており、法律文書等には記載されている。
(明治31年勅令第90号・閏年ニ関スル件) 尚、東北地方では、神武天皇に殺された長髄彦の兄安日彦が津軽に亡命した事をもって日本の建国としている。
(中尊寺文書、平泉雑記など) 4-2). 国号の成立から現在まで 「日本」という国号が成立したのは701年前後と推定される。
『隋書』、『旧唐書』、『新唐書』等に記された遣隋使の報告には「倭国と日本国は別の国であり、併合して日本国となった[10]」とあるが、これは一般には天武天皇が弘文天皇の近江朝廷を滅亡させた壬申の乱を表していると解釈されている。
平安時代の貴族の会話[要出典]の中で、日本国が中国に対して「日の本」即ち東方にある事をもって日本としたと説明されており、畿内においては東方の飛鳥地方を日本(ひのもと)と呼び、更には朝廷から東方にある関東地方や東北地方を長らく「日本」と呼んでいた事からも、この説が妥当であるとする見解がある。
但し、景行期に東海地方以東の蝦夷の国を「日高見国」と呼んでいた事から反論も根強く、日本国号の起源について未だに定説は見られない。
朝廷は8世紀から拡大策を強め、東北の蝦夷や九州の隼人等を服従させる事により、徐々に拡大を続けた。
之以後の主な対外戦争には、白村江の戦い、刀伊の入寇、元の蒙古襲来、応永の外寇、文禄・慶長の役等がある。
この間に「日本」と呼ばれる地理的領域は北上し、日本は東北沿岸から津軽、更には北海道東部のアイヌ部族の呼称として移動していった。
又モンゴル帝国において、ようやく大和朝廷の対外的呼称が「日本」に固定される様になり、権力者層に次第に日本意識・日本人意識が貫かれる様になった。
18世紀になると、シャクシャインの乱やロシア帝国との接触で北方への関心が強まり、アイヌ及びロシアへの他者意識として日本観・日本人観が江戸の庶民に定着していった。
之に応じて日本の指す領域は南下し、アイヌ居住地である蝦夷ガ島(北海道)以南が日本と意識される様になった。
19世紀になるとアメリカ合衆国始めヨーロッパ各国への他者意識として日本観・日本人観がいよいよ定着し、現代の日本観・日本人観にほぼ一致する様になった。
19世紀半ば以降、欧米列強の国家形態に触発される形で、天皇を中心とした近代国家を創出しようという試みが起こり、朝廷、幕府、藩によって分割統治されていた時代が終焉、近代的な意味での「日本国」が成立した。
明治維新と呼ばれる近代化政策が実行され、1871年の廃藩置県と翌1872年の琉球処分を通じて、ほぼ現在の領土が確定した。更に大日本帝国憲法を日本人自身の手で書き上げ、1889年に施行され、翌1890年に二院制からなる議会政治を作り上げた。 その後日清戦争と日露戦争に勝利した。
20世紀前半には台湾や朝鮮半島を併合した。
第一次世界大戦では連合国側として参戦、南洋諸島の委任統治を行った。
大戦後の自由な空気の中で、様々な政治的改革も試みられ、普通選挙の実施、政党内閣の慣例化など大正デモクラシーと呼ばれる政治運動が起こった。
1930年代になると社会の動揺から、軍部の発言力が増大し、満州事変を通じて事実上の傀儡政権として満州国(中国東北部)が建国されると、大陸との摩擦が深まり、ついには日中戦争へと発展した。
日本軍は東南アジアのほぼ全域にまで進出し、外交においては既に欧州において始まっていた第二次世界大戦の枢軸国側と協調した。
結果米国を中心とする連合国と決定的に対立、太平洋戦争(閣議決定では、支那事変(日中戦争)を含め対米英戦争を大東亜戦争と呼称すると決定した)へと発展した。
1945年に連合国のポツダム宣言を受諾。 無条件降伏を受け入れ第二次世界大戦は日本を始めとする枢軸国の敗北で終結した。
戦場となった地域の多くでは多数の民間人が犠牲となり、日本の国土も首都東京を始め空襲により焦土と化した。
又、この際、広島と長崎に原子爆弾が使用されている。
敗れた日本は、それまで拡大した領土の大半を失い、アメリカ合衆国を中心とする連合国軍の占領下に置かれた。
文字通り各国の総力戦となりこの戦争の遂行過程で様々な戦争犯罪があったとされ、現在も世界中で様々な議論を呼んでいる (日本が加害者とされる者は「日本の戦争犯罪」、被害を受けた者は「戦争犯罪」等の項を参照) 第二次世界大戦後の日本は、軍国主義の否定によって再出発した。
その拠り所が日本国憲法である。 日本国憲法は1946年11月3日に大日本帝国憲法を改正する形で連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の元に公布され、1947年5月3日施行された。
日本国憲法では、天皇を国の統合の象徴とする事や主権が国民にある立憲民主制国家として再生させる事及び、紛争の解決手段としての戦力の保持及び交戦権を放棄する事等が示され、国号も日本国と改めた。
・1950年に隣国朝鮮半島で、朝鮮戦争が勃発した。 GHQの指示により、警察予備隊(後の自衛隊)が設立され、事実上の再軍備の道を辿った。
・1951年にサンフランシスコ平和条約を締結し、日本と連合国は講和した。
・1952年4月28日、日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)の発効により占領は終了し、独立を回復した独立回復後の日本はその基本理念として一切の軍国主義を否定し、アメリカ合衆国とは同盟関係を結んだ。
・1955年に、保守政党である日本民主党と自由党が合同し55年体制のもとで長期安定政権を確立した。
その後、日本は高度経済成長を迎え、経済は驚異的な勢いで発展した。 東京オリンピックや日本万国博覧会の開催は、戦後の日本が国際社会に復帰する事の象徴にもなった。
・1968年、1972年には日本の領土とされながらも、施政権を喪失していた小笠原諸島と沖縄の施政権が米国から返還された。
現在では、発展途上国のための支援ODAなどを行い、世界の平和や相互理解に一定の役割を果たすまでになった。
近年は先進国として国際紛争解決の為に国連平和維持軍の一員として、日本が軍隊派遣をするかどうかが議論の対象となっている。
しかし現在の日本国憲法下では軍事力の放棄が記されている事等の為、自衛隊の派遣については日本国内で賛否が分かれている。 現在は憲法改正の動き等も見られ、活発な議論が行われている ・
1999年8月13日に国旗及び国歌に関する法律(通称:国旗・国歌法)で、国旗は日章旗(通称:日の丸)、国歌は君が代と定められた。 4-3).
今後の課題 数々の異例の大躍進に支えられて現在の地位を確立した日本も、問題を抱えていない訳ではない。 急速に進む高齢化と出生率の低下は、可也りの部分を国民の技術に依存してきた国力を削ぎかねないとの意見がある。
又、2007年に各自治体の財源を襲うと言われている「団塊の世代」の大量退職に伴う退職金の支給問題や、若年層を中心に広がる所得格差、又依然として低いレベルに留まっている国民全体のコンピューターのソフトウェア技術に対する分不相応の理解度は、既に各所で問題を引き起こしつつあるとされており、インドや中国の後塵を拝しつつあるとも言われる。
5).日本民族、日本の民族問題、及び 日本の外国人も参照 日本人の起源は、いわゆる縄文人、弥生人を基調とし、古代には中華世界から「倭人」と呼ばれた人々が中心となっているとされているが、日本人の起源そのものについては諸説あり、定かではない。
自称としては「和人」、或いは近代的民族意識の下では「大和民族」とも言う。
古代からの天皇を頂点とする近畿地方の朝廷と、中世以降における天皇を支配の正統原理として後ろ盾とする武家政権との、二重構造で成立していた中央政権の支配下に入った地域の住民が、固有の日本人とされる。
中世以降、沖縄(琉球)に成立し南西諸島の大半を支配下に置いた琉球王国、及び北海道・千島列島・樺太南部(蝦夷地)に居住したアイヌ(ウタリ)については、其々「南の日本」、「北の日本」とも称される。
之等の地域に住む人々は、弥生時代以降、「中の日本(主要な3島及びその周辺島嶼を指す)」とはやや異なる歴史を歩んだ経緯があり、固有の民族性を発達させた。
ただ、元来、鎖国基調にあった、中の日本に対し、琉球は南方で、アイヌは北方で其々大陸勢力との接触・交流を担っていたという構造が背景にあり、中の日本は限られた窓口を通じての大陸勢力との直接接触を除くと、琉球、アイヌを通じて間接的に大陸勢力と接触していた側面が色濃い。
尚アイヌと共に樺太にいたウィルタ、ニヴフは、樺太南部へのソビエト侵攻と占領後、北海道や本州へ移住した。 今でもロシアに対して樺太南部の返還を求める声も僅かながらある。
又、小笠原諸島には19世紀初頭ハワイから植民団が入植し、ヨーロッパ系アメリカ人やハワイ人による小規模なコロニーを形成したが、明治維新後日本領有が確定し、ヨーロッパ系、ハワイ系住民は順次日本国籍を取得し、日本人社会に溶け込んでいった。
アイヌ人は現在でも民族的・文化的独自性を保持し、二風谷ダム訴訟判決でも日本における先住性が確認された。 又アイヌ文化振興法が制定され、アイヌ語やアイヌ文化の保持・発展に国も積極的な支援を行う事となり、アイヌ語話者も少しずつ増えてきている。
又、明治維新以降、20世紀に入り、伝統的に大陸勢力との繋がりが深い朝鮮半島や台湾を併合し、更に軍事的、政治的、経済的に激しく中国に食い込んでいった為、之等の地域の出身者も、日本国籍取得者(帰化者)、外国人登録者(永住者)の双方の形態で、比較的多数の住民として抱えていく事になった。
現在総人口の約1.5%が外国人登録者である。 韓国籍、朝鮮籍、中国籍、台湾籍、ブラジル国籍、フィリピン国籍等が多く、韓国・朝鮮籍を除けば増加傾向にある。
韓国・朝鮮籍、及び中国籍については、戦前の旧日本領出身者及びその子孫が多く、最近では中国残留孤児や家族の永住帰国も多い。
又最近の外国籍増加の背景には、1990年の入管法改正でブラジル等に移民した日本人移民及び子孫の、日本での就労が自由化された事が大きい。
6). 日本の範囲 ・最東端:東京都南鳥島(北緯24度16分59秒・東経153度59分11秒) ロシア占領下で帰属が微妙な千島列島占守島小泊崎(北緯50度・東経155度)を最東端とする意見もある。
・最西端:沖縄県与那国島西崎(北緯24度26分58秒・東経122度56分01秒) 正式な「日本の最○端」のなかで唯一、公共交通機関で誰でも自由に訪れることができる場所である。
最南端:東京都沖ノ鳥島(北緯20度25分31秒・東経136度04分11秒) 人の住む最南端としては、沖縄県波照間島(北緯24度2分25秒・東経123度47分16秒) 最北端:北海道択捉島カモイワッカ岬(北緯45度33分28秒・東経148度45分14秒) 北方領土を除く最北端は、北海道稚内市弁天島(宗谷岬;北緯45度31分13秒・東経141度56分27秒) ロシア占領下で帰属が微妙な千島列島阿頼度島最北埼(北緯50度55分30秒・東経155度32分)を最北端とする意見もある。
do_decolink('diary_body')
登録:
投稿 (Atom)